立教大

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

伝奇バイオレンス・アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

売れないルポライター

ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。
初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。
電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

と頼むのだ。

現在の『○○Walker』や『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。

取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての仕事をこなしていった。

菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。
経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。

早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”
(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”
(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター (電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

菊地にはないネットワークと営業力があった。

しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。
原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。
早く大量の記事を短時間で書き上げる。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。
一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。
この具体的に書くということは、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。

翻訳家志望

だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。
1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。
第1期生は約250名。

同期に、漫画家では高橋留美子・たなか亜希夫・山本貴嗣。
漫画原作者では、狩撫麻礼・工藤かずや・早乙女正幸。
また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンエームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。
しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

この頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。
「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。
ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。
このグラビアは一部の好事家に注目された。

そして、菊地は『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。
この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

菊地は作家になることを目指していた。
しかし、“「自信がなかった」”、と語っている。

山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。
1974年に『神狩り』で作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。
打ちのめされるのが目に見えていたからだという。
結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

だがこれは、菊地に限ったことではない。
『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。
銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。

その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)
※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)
※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

そして、この頃、通っていた伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。
彼女にはふたりの兄がいた。長兄がニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年である出版社の記者だった。
菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。
この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。
船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。
1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。
菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

1982年9月30日『魔界都市〈新宿〉』で作家デビュー

フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。
朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」と声が掛かったのだ。
菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。
理由は、「長すぎる」。

その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。
自負はあったが、没にされたことで一時自信を失ったのではないだろうか。

しかし、映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。
この小説が出版されるまでには、紆余曲折もあった。

菊地の持ち味であるエロスとホラー要素が、「ソノラマ文庫の読者と合っていない」と編集者から指摘を受け、数箇所を削除しなければならなかった。
菊地には不愉快な出来事だっただろう。
しかし、菊地は指摘を受けた箇所を直して作品を完成させた。夫人の励ましもあったのだろう。原稿の清書では、半分を夫人がおこなった。

夫婦が一体となって完成させたといってもさしつかえない作品『魔界都市〈新宿〉』は1982年9月30日に発売となった。

菊地秀行33歳での作家デビュー。

初版は1万3000部。

9月25日生まれの菊地にとっては5日遅れではあったが、最高のバースデープレゼントだったのではないだろうか。

1ヶ月後には1万部の増刷が決まる。
当時のソノラマ文庫で増刷がかかっていたのは、『機動戦士ガンダム』のノベライズと高千穂遙の『クラッシャージョウ』くらいだった。

ソノラマ文庫編集部にとって、読者の反応は意外なことだったのではないか。

菊地は、ソノラマ文庫を戦場に次なる作品を放っていくことになる。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第3回に続きます。

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

1970年代の話

1979年【昭和54年】全国主要私立大学偏差値一覧表

1979年主要私立大学文科系偏差値・難易度表一覧

偏差値65.0以上

早稲田大学政治経済学部

早稲田大学法学部

早稲田大学商学部

早稲田大学第一文学部

慶應義塾大学経済学部

慶應義塾大学文学部国文学専攻

上智大学法学部

上智大学外国語学部英米語学科

偏差値62.5以上

中央大学法学部法律学科

上智大学経済学部経営学科

上智大学文学部英文学科

上智大学外国語学部ドイツ語学科

上智大学文学部仏文科

国際基督教大学(ICU)教養学部言語学科

早稲田大学教育学部英語英文学科

早稲田大学教育学部教育心理学科

同志社大学文学部心理学専攻

偏差値60.0以上

早稲田大学教育学部国語国文学科

上智大学文学部史学科

上智大学文学部国文学科

上智大学外国語学部比較文化学科

上智大学経済学部経済学科

青山学院大学文学部史学科

青山学院大学文学部英米文学科

中央大学法学部政治学科

学習院大学法学部法律学科

立教大学法学部法律学科

国際基督教大学(ICU)教養学部人文科学科

同志社大学文学部史学科

同志社大学文学部英文学科

同志社大学文学部国文学科

同志社大学法学部法律学科

立命館大学文学部日本史学科

立命館大学文学部英米文学科

関西学院大学経済学部

偏差値57.5以上

慶應義塾大学商学部

慶應義塾大学法学部法律学科

学習院大学経済学部経済学科

学習院大学文学部仏文学科

学習院大学文学部国文学科

学習院大学文学部心理学科

立教大学経済学部経済学科

立教大学社会学部産業関係学科

立教大学文学部英米文学科

立教大学文学部日本文学科

立教大学文学部心理学科

青山学院大学経済学部

青山学院大学法学部

青山学院大学文学部日本文学科

明治大学政治経済学部経済学科

明治大学法学部政治学科

明治大学文学部東洋史学科

上智大学文学部哲学科

中央大学文学部心理学科

東京女子大学文理学部文系

成城大学文芸学部国文学科

國學院大學文学部史学科

南山大学外国語学部英米語学科

南山大学文学部国語国文学科

同志社大学経済学部

同志社大学法学部政治学科

同志社大学文学部新聞学専攻

関西大学経済学部

関西大学法学部法律学科

関西大学文学部史学科

関西学院大学商学部

関西学院大学法学部

関西学院大学文学部

立命館大学文学部日本文学科

偏差値55.0以上

中央大学経済学部経済学科

中央大学商学部会計学科

中央大学文学部英文学科

学習院大学文学部独文科

明治大学商学部

明治大学文学部仏文科

明治大学文学部西洋史学科

成城大学法学部

成城大学文芸学部

法政大学法学部

法政大学文学部英文学科

法政大学文学部史学科

明治学院大学文学部英文学科

立教大学文学部教育学科

國學院大學文学部日本文学科

日本女子大学文学部国文学科

南山大学文学部仏文学科

南山大学法学部

立命館大学経済学部経済学科

立命館大学文学部中国文学科

関西大学商学部

関西大学法学部政治学科

関西大学文学部英文学科

関西大学文学部国文学科

関西学院大学社会学部

同志社大学文学部哲学・倫理専攻

京都女子大学文学部英文学科

偏差値52.5以上

中央大学経済学部国際経済学科

中央大学商学部経営学科

中央大学文学部仏文科

早稲田大学教育学部体育学科

早稲田大学社会科学部

法政大学経営学部

法政大学文学部日本文学科

成城大学経済学部経済学科

成蹊大学経済学部経済学科

成蹊大学法学部法律学科

成蹊大学文学部日本文学科

成蹊大学文学部英米文学科

明治学院大学法学部

明治学院大学文学部仏文科

明治大学文学部演劇学科

駒沢大学文学部史学科

専修大学経済学部

専修大学文学部人文学科

愛知大学法経学部法学科

愛知大学文学部英文学科

南山大学文学部哲学科

甲南大学経済学部

甲南大学法学部

京都産業大学経済学部

京都産業大学外国語学部

同志社大学商学部

関西大学文学部仏文科

関西大学文学部哲学科

西南学院大学経済学部

偏差値50.0以上

早稲田大学第二文学部

中央大学法学部第二部

明治大学政治経済学部第二部

日本大学法学部法律学科

日本大学文理学部心理学科

青山学院大学第二経済学部

専修大学商学部商学科

専修大学法学部

専修大学文学部英米文学科

明治学院大学経済学部経済学科

明治学院大学社会学部社会学科

國學院大學経済学部

國學院大學文学部哲学科

駒沢大学経済学部経済学科

武蔵大学経済学部経済学科

武蔵大学人文学部社会学科

創価大学法学部

東洋大学文学部国文学科

神奈川大学経済学部経済学科

愛知大学法経学部経済学科

南山大学経営学部

龍谷大学経済学部

甲南大学文学部

同志社大学経済学部第2部

西南学院大学商学部商学科

京都産業大学法学部

関西学院大学神学部

SAPIX(サピックス)の最新情報

【2020年版】SAPIX(サピックス)が発表した 首都圏中学入試 合格率80%偏差値一覧表

2020 SAPIX(サピックス)が発表した 首都圏中学校 偏差値一覧表

はる坊です。

2020年の中学入試に向けた戦いは、まさに真っ最中です。
SAPIX(サピックス)が2019年4月に首都圏の国立・公立・私立中学校の偏差値を発表しました。

これは、2019年入試において、該当する偏差値において80%のSAPIX生が合格した数値です。

偏差値をみていきますと、〝御三家〟〝女子御三家〟〝早慶〟でも偏差値60台が多く見受けられますが、SAPIXに通っている生徒の学力レベルを考えると、この一覧表・ランキングで偏差値60であっても、かなりの学力を有しています。
最大限の努力×一番正しい勉強法を身に付けないと、合格はおぼつかないでしょう。

私はSAPIXの回し者ではありませんが、この偏差値表の最後に、2019年のSAPIX生の合格実績リストをご用意しました。

2020年の中学入試のご参考に、一助となれば幸いです。

お子さまの第一志望校合格を、心から祈念いたしております。
合格したという経験は、お子さま自身が将来に向けて、何より大きな自信を持つことになります。

自信を持たせるのではなく、自らが自身に自信を持つ。
これは大きな違いがあります。

それでは、偏差値ランキングをみていきましょう。

2020 中学受験SAPIX 首都圏中学校 男子 偏差値一覧表

偏差値70以上

筑波大学附属駒場中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:70

偏差値60~69クラス

開成中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:67

聖光学院中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:64

渋谷教育学園幕張中学校 1次
2019年入試日程:1月22日
偏差値:64

渋谷教育学園幕張中学校 2次
2019年入試日程:2月2日
偏差値:64

渋谷教育学園渋谷中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:63

栄光学園中学校
2019年入試日程:2月2日
偏差値:62

早稲田中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:62

麻布中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:62

海城中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:61

筑波大学附属中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:61

栄東中学校 東大I
2019年入試日程:1月12日
偏差値:61

東京都立小石川中等教育学校 一般枠
2019年入試日程:2月3日
偏差値:60

偏差値:50~59クラス

海城中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

駒場東邦中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

慶應義塾湘南藤沢中等部(SFC)一般
2月2日
偏差値:58

慶應義塾中等部
2019年入試日程:2月3日
偏差値:58

慶應義塾普通部
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

早稲田中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

武蔵中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

昭和学院秀英中学校 午後特別
2019年入試日程:1月20日
偏差値:58

渋谷教育学園渋谷中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:57

浅野中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:57

早稲田大学高等学院 中学部
2019年入試日程:2月1日
偏差値:56

本郷中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:56

開智中学校 先端特待
2019年入試日程:1月11日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:56

桐朋中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:55

攻玉社中学校 2回
2月2日
偏差値:55

早稲田実業学校 中等部
2月1日
偏差値:55

広尾学園中学校 1回
2月1日
偏差値:55

市川中学校 1回
1月20日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 後期
2月3日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 前期
1月21日
偏差値:54

芝中学校 1回
2月1日
偏差値:53

昭和学院秀英中学校 3回
2月2日
偏差値:52

逗子開成中学校 1次
2月1日
偏差値:51

立教新座中学校 1回
1月25日
偏差値:51

昭和学院秀英中学校 2回
1月22日
偏差値:51

サレジオ学院中学校 A
2月1日
偏差値:50

鎌倉学園中学校 2次
2月2日
偏差値:50

2020 中学受験SAPIX 首都圏中学校 女子 偏差値一覧表

偏差値:60~64クラス

渋谷教育学園幕張中学校 1次
2019年入試日程:1月22日
偏差値:64

渋谷教育学園幕張中学校 2次
2019年入試日程:2月2日
偏差値:64

渋谷教育学園渋谷中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:63

慶應義塾中等部
2019年入試日程:2月3日
偏差値:63

桜蔭中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:62

豊島岡女子学園中学校 2回
2月3日
偏差値:62

栄東中学校 東大特待I
2019年入試日程:1月12日
偏差値:61

女子学院中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:61

筑波大学附属中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:61

慶應義塾湘南藤沢中等部(SFC)一般
2019年入試日程:2月2日
偏差値:60

渋谷教育学園渋谷中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:60

豊島岡女子学園中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:60

偏差値:50~59クラス

昭和学院秀英中学校 午後特別
2019年入試日程:1月20日
偏差値:58

お茶の水女子大学附属中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:58

早稲田実業学校中等部
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

東京都立小石川中等教育学校 一般枠
2019年入試日程:2月3日
偏差値:58

雙葉中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:58

鴎友学園女子中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:57

洗足学園中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:57

開智中学校 先端特待
2019年入試日程:1月11日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 1回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:56

明治大学付属明治中学校 2回
2019年入試日程:2月3日
偏差値:56

フェリス女学院中学校
2019年入試日程:2月1日
偏差値:56

浦和明の星女子中学校 1回
2019年入試日程:1月14日
偏差値:56

横浜共立学園中学校 B
2019年入試日程:2月3日
偏差値:56

広尾学園中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:55

市川中学校 1回
2019年入試日程:1月20日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 後期
2019年入試日程:2月3日
偏差値:55

東邦大学付属東邦中学校 前期
2019年入試日程:1月21日
偏差値:54

吉祥女子中学校 2回
2019年入試日程:2月2日
偏差値:54

青山学院中等部
2019年入試日程:2月2日
偏差値:54

洗足学園中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:54

白百合学園中学校
2019年入試日程:2月2日
偏差値:54

学習院女子中等科 B
2019年入試日程:2月3日
偏差値:53

昭和学院秀英中学校 3回
2019年入試日程:1月22日
偏差値:52

吉祥女子中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:52

昭和学院秀英中学校 2回
2019年入試日程:1月22日
偏差値:51

東京学芸大学附属世田谷中学校
2019年入試日程:2月3日
偏差値:51

東洋英和女学院中学部 B
2019年入試日程:2月3日
偏差値:51

学習院女子中等科 A
2019年入試日程:2月1日
偏差値:50

頌栄女子学院中学校 1回
2019年入試日程:2月1日
偏差値:50

SAPIX 2019年 全国中学入試合格者数一覧表

※首都圏だけではなく、関西圏の合格実績も見ていただきたいと考え、五十音順にしております。

東大を始め、国公立・私立医学部に合格者を多数出している学校。
そして今後、難化が予想される早慶・MARCHクラスの附属中学校にも、多くの生徒が合格していることがわかります。

浅野中学校
合格者数:236名

麻布中学校
合格者数:183名

足立学園中学校
合格者数:6名

栄光学園中学校
合格者数:128名

大阪星光学院中学校
合格者数:4名

海城中学校
合格者数:262名

開成中学校
合格者数:273名

海陽中等教育学校
合格者数:24名

学習院中等科
合格者数:73名

鹿児島県立楠隼中学校
合格者数:2名

鎌倉学園中学校
合格者数:86名

暁星中学校
合格者数:38名

慶應義塾普通部
合格者数:107名

京華中学校
合格者数:5名

攻玉社中学校
合格者数:126名

佼成学園中学校
合格者数:9名

甲南中学校
合格者数:3名

甲陽学院中学校
合格者数:8名

駒場東邦中学校
合格者数:169名

サレジオ学院中学校
合格者数:90名

静岡聖光学院中学校
合格者数:9名

芝中学校
合格者数:175名

芝浦工業大学附属中学校
合格者数:13名

城北中学校
合格者数:136名

城北埼玉中学校
合格者数:67名

巣鴨中学校
合格者数:192名

逗子開成中学校
合格者数:96名

聖学院中学校
合格者数:3名

聖光学院中学校
合格者数:225名

成城中学校
合格者数:57名

世田谷学園中学校
合格者数:163名

高輪中学校
合格者数:76名

筑波大学附属駒場中学校
合格者数:73名

東海中学校
合格者数:3名

東京都市大学付属中学校
合格者数:344名

桐光学園中学校男子部
合格者数:13名

東大寺学園中学校
合格者数:8名

桐朋中学校
合格者数:141名

藤嶺学園藤沢中学校
合格者数:7名

獨協中学校
合格者数:27名

名古屋中学校
合格者数:1名

灘中学校
合格者数:31名

日本大学豊山中学校
合格者数:11名

日本学園中学校
合格者数:2名

函館ラ・サール中学校
合格者数:155名

北嶺中学校
合格者数:35名

本郷中学校
合格者数:254名

武蔵中学校
合格者数:55名

明治大学付属中野中学校
合格者数:69名

明星中学校(大阪)
合格者数:3名

横浜中学校
合格者数:4名

ラ・サール中学校
合格者数:20名

洛星中学校
合格者数:3名

立教池袋中学校
合格者数:30名

立教新座中学校
合格者数:167名

六甲学院中学校
合格者数:4名

早稲田中学校
合格者数:206名

早稲田大学高等学院中学部
合格者数:57名

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

1970年代の話

1976年(昭和51年)私立大学偏差値一覧表

1976年度の私立大学入試の偏差値(難易度)をご紹介します

はる坊です。
以前に1972年度の大学偏差値をご紹介しました。

今回はその4年後、1976年度の私立大学入試の偏差値をご紹介します。
データは1975年11月に行われた代々木ゼミナールの公開模試に基づいたものです。

1976年度大学入試私立大学偏差値表

滑り止めに合格しても素直に喜べなかった入学金制度

今回ご紹介する偏差値表では、

○○大学○○学部・・・偏差値○○

という形ではなく、合格可能圏偏差値として、○○~○○という数値が並びます。

これには理由があります。

1975年以前では、私立大学は合格発表後から一週間前後には入学手続きをとり、入学金・授業料・施設料などをまとめて徴収して、その後、別の私立大学や国公立大学の入試に合格しても、一度支払われた入学費用は、一切返還されないという形がとられていました。

国公立大学を狙う受験生の場合、浪人覚悟の場合や「国公立1本で大丈夫。必ず合格する」という自信満々の受験生はともかく、大半の受験生は、私大を滑り止めとして受けて、うち一校に、入学金・授業料・施設料などの入学時納入金額を収めた上で、第一志望を受験していました。

そして第一志望の国公立に合格しても、前もって滑り止めに支払った入学時納入金は一切返還されないのが決まりでした。

私立大学専願の受験生でも、第一志望の受験日が遅い時期であれば、早い時期に合格した滑り止めに入学金等を支払わなければなりませんでした。

その額、私立文系で20万円~35万円。

年次統計によると大卒初任給89,300円だった時代です。
これは受験生を抱える家庭にとっては、大きな負担だと考えられていました。

この状況に対して、受験生やその父兄からは、「私立大のタダ取り」ではないかという指摘が数多くあり、この年からは大半の私立大学において、入学申込金(入学金)や〝登録料〟と呼ばれる費用を合格後に納めれば、一定期間(国公立大学の入試合否判明まで等)、費用の延納を認めたり、一旦、入学時納入金は納めるものの、あとで手続きをすれば、入学金以外は受験生側に返金するというシステムがつくられました。

その為、この年からは私立大学の併願数が増加するのでは?

という予測がされたのですが、実際に、併願数が増加するかはこの時点ではわからず、

偏差値○○~○○が、○○大学○○学部の合格可能圏偏差値

と発表されたのでした。

それでは、発表された大学の難易度を見ていきましょう。

1976年(昭和51年)大学合格可能偏差値

岩手医科大学
医学部・・・・・55~57
歯学部・・・・・51~57

早稲田大学
政治経済学部・・・・・・58~63
法学部・・・・・・・・・58~60
商学部・・・・・・・・・58~60
第一文学部・・・・・・・58~60
教育学部・・・・・・・・55~60
理工学部(建築)・・・・58~63
理工学部(その他)・・・58~60

慶應義塾大学
法学部・・・・・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・55~60
文学部・・・・・・・・・58~60
商学部・・・・・・・・・55~60
工学部・・・・・・・・・58~60
医学部・・・・・・・・・64~67

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明治大学
法学部・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・55~57
政治経済学部(政治)・・51~57
政治経済学部(経済)・・51~57
経営学部・・・・・・・・51~57
工学部(建築)・・・・・55~60
工学部(その他)・・・・55~57
文学部・・・・・・・・・55~57
農学部・・・・・・・・・40~50

立教大学
経済学部・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・55~60
文学部Ⅰ・・・・・・・・58~60
文学部Ⅱ・・・・・・・・55~60
理学部・・・・・・・・・51~60
社会学部・・・・・・・・51~57
※文学部Ⅰ・Ⅱは専攻によって分けられていたものと思われる。

法政大学
工学部・・・・・・・・・48~54
法学部・・・・・・・・・51~54
経済学部・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・48~54
社会学部・・・・・・・・51~54
文学部・・・・・・・・・51~54

中央大学
法学部(法律)・・・・・58~60
法学部(政治)・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・51~57
商学部・・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・55~60
文学部・・・・・・・・・51~57

上智大学
外国語学部・・・・・・・58~63
文学部Ⅰ(文学)・・・・58~60
文学部Ⅱ(その他)・・・58~60
理工学部Ⅰ・・・・・・・55~60
理工学部Ⅱ・・・・・・・58~60
経済学部・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・55~60
※理工学部Ⅰ・Ⅱは専攻によって分けられていたものと思われる。

津田塾大学
学芸学部(国際)・・・・・58~60
学芸学部(英文)・・・・・58~60
学芸学部(数学)・・・・・58~60

青山学院大学
文学部(英文)・・・・・・58~60
文学部(仏文)・・・・・・55~60
文学部(史学)・・・・・・55~60
文学部(教育)・・・・・・55~57
文学部(日本文学)・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・・48~54
法学部・・・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・・48~54

学習院大学
法学部・・・・・・・・・・55~57
経済学部・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・55~60
理学部(化学)・・・・・・51~57
理学部(その他)・・・・・55~60

国際基督教大学
教養学部・・・・・・・・・58~60

自治医科大学
医学部・・・・・・・・・・61~67

東京医科大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

東京歯科大学
歯学部・・・・・・・・・・55~60

東京薬科大学
薬学部・・・・・・・・・・55~60

日本医科大学
医学部・・・・・・・・・・61~63

日本歯科大学
歯学部・・・・・・・・・・55~60

昭和大学
医学部・・・・・・・・・・51~57
歯学部・・・・・・・・・・51~54

順天堂大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

東京女子医科大学
医学部・・・・・・・・・・55~60

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東京理科大学
理学部(数学)・・・・・・55~60
理学部(応用化学)・・・・55~60
理学部(物理)・・・・・・55~60
理学部(応用数学)・・・・55~60
理学部(化学)・・・・・・55~60
理学部(応用物理)・・・・55~60
工学部(建築)・・・・・・58~60
工学部(工業化学)・・・・55~60
工学部(経営工学)・・・・55~60
工学部(電気工学)・・・・55~60
工学部(機械工学)・・・・55~60
薬学部・・・・・・・・・・55~60
理工学部(数学)・・・・・51~57
理工学部(建築)・・・・・55~57
理工学部(電気工学)・・・51~57
理工学部(土木)・・・・・55~57
理工学部(物理)・・・・・51~57
理工学部(機械工学)・・・51~57
理工学部(経営工学)・・・51~57

芝浦工業大学
工学部(機械工学)・・・・48~54
工学部(通信工学)・・・・48~54
工学部(建築)・・・・・ 55~57
工学部(工業経営)・・・・48~54
工学部(工業化学)・・・・48~54
工学部(機械工学)・・・・48~54
工学部(土木)・・・・・・55~57
工学部(電子工学)・・・・48~54
工学部(金属工学)・・・・48~54
工学部(建築工学)・・・・48~54
工学部(電気工学)・・・・48~54

武蔵工業大学(現・東京都市大学)
工学部(電子通信)・・・・・55~57
工学部(経営工学)・・・・・51~57
工学部(電気工学)・・・・・55~57
工学部(土木工学)・・・・・55~60
工学部(機械工学)・・・・・51~57
工学部(建築)・・・・・・・55~60

成城大学
経済学部・・・・・・・・・・51~57
文芸学部・・・・・・・・・・51~57

成蹊大学
経済学部・・・・・・・・・・48~54
工学部・・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・51~57
法学部・・・・・・・・・・・48~54

明治学院大学
文学部(英文)・・・・・・・51~57
文学部(その他)・・・・・・51~57
経済学部(商)・・・・・・・48~54
経済学部(経済)・・・・・・48~54
社会学部(社会福祉)・・・・51~54
社会学部(社会)・・・・・・51~54
法学部・・・・・・・・・・・51~54

日本女子大学
家政学部・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・55~57

東京女子大学
文理学部・・・・・・・・・・58~60

共立女子大学
文芸学部・・・・・ ・・・・48~54
家政学部・・・・・・・・・・45~50

大妻女子大学
家政学部・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・48~54

日本大学
法学部(法律)・・・・・・・45~50
法学部(政治経済)・・・・・45~50
法学部(新聞)・・・・・・・45~50
文理学部(理)・・・・・・・45~50
文理学部(文学)・・・・・・48~54
文理学部(社会・教育)・・・48~54
経済学部(経済)・・・・・・45~50
経済学部(産業経営)・・・・45~50
商学部(会計)・・・・・・・45~50
商学部(経営)・・・・・・・45~50
商学部(商業)・・・・・・・45~50
理工学部(物理)・・・・・・55~57
理工学部(数学)・・・・・・55~57
理工学部(建築)・・・・・・55~57
理工学部(土木)・・・・・・55~57
理工学部(その他)・・・・・48~54
生産工学部 ・・・・・・・・45~50
工学部・・・・・・・・・・・40~47
医学部・・・・・・・・・・・51~57
歯学部・・・・・・・・・・・51~57

東海大学
医学部・・・・・・・・・・・51~57

専修大学
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
法学部・・・・・・・・・・・・48~54
経営学部・・・・・・・・・・・45~50
商学部・・・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・・48~54

東洋大学
法学部・・・・・・・・・・・・45~50
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
経営学部・・・・・・・・・・・45~50
文学部・・・・・・・・・・・・48~54
工学部・・・・・・・・・・・・48~50

東京電機大学
工学部・・・・・・・・・・・・48~54

神奈川大学
法学部・・・・・・・・・・・・45~50
外国語学部・・・・・・・・・・51~54
経済学部・・・・・・・・・・・45~50
工学部・・・・・・・・・・・・48~54

同志社大学
神学部・・・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・・55~60
法学部・・・・・・・・・・・55~60
経済学部・・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・・・51~57
工学部・・・・・・・・・・・55~60

立命館大学
法学部・・・・・・・・・・・51~57
経済学部・・・・・・・・・・51~57
経営学部・・・・・・・・・・51~57
産業社会学部・・・・・・・・51~57
理工学部・・・・・・・・・・48~54
文学部・・・・・・・・・・・55~60

大阪医科大学
医学部・・・・・・・・・・・51~57

大阪薬科大学
薬学部・・・・・・・・・・・55~57

関西大学
法学部・・・・・・・・・・・51~57
文学部・・・・・・・・・・・48~54
経済学部・・・・・・・・・・48~54
商学部・・・・・・・・・・・48~54
社会学部・・・・・・・・・・48~54
工学部(電気・電子)・・・・48~50
工学部(その他)・・・・・・48~54

関西学院大学
文学部・・・・・・・・・・・55~60
社会学部・・・・・・・・・・51~57
法学部・・・・・・・・・・・55~57
経済学部・・・・・・・・・・55~57
商学部・・・・・・・・・・・51~57
神学部・・・・・・・・・・・51~57
理学部・・・・・・・・・・・55~57

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