大藪春彦

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)

人物伝

大藪春彦本人の食事シーンは小説よりも奇なりだった!

小説の食事シーンは魅力的です

はる坊です。

映画やTVドラマで食をテーマにしたモノには人気があります。
その原作となっているのは、漫画や小説であることが多いです。
コミック作品がアニメ化されるのは珍しいことではありませんが、映画化やTVドラマ化されるのは、一般的にグルメものは視聴者にウケがいいと制作サイドが考えているからではないでしょうか。

漫画なら
『孤独のグルメ』(原作:久住昌之 作画:谷口ジロー)
『ワカコ酒』(新久千映)
『忘却のサチコ』(阿部潤)
『サチのお寺ごはん』(かねもりあやみ 原案協力:久住昌之 監修:青江覚峰)
『ラーメン大好き小泉さん』(鳴見なる)

などなど。

小説においても、
村上春樹や池波正太郎の料理や食事シーンの描写は特に巧みです。
村上作品の料理については『村上レシピ』として出版されていますし、池波正太郎はグルメについてのエッセイや生前愛した店をまとめた本も出版されています。

また、
『強運の持ち主』(瀬尾まいこ)
『食堂かたつむり』『喋々喃々』(小川糸)

の食に関するシーンは魅力的ですし、

『みをつくし料理帳』(高田郁)に至っては、この作品内に登場する料理のレシピ集『澪の料理帖』が出版されるまでになりました。

基本的に、作中の料理や食事シーンは、著者が、

「このキャラクターならこんなメニューが好きだろう。似合うだろうな」
とか、
「このキャラクターにはこういう料理を作らせたい」

という願望や読者サービスで描いているケースが多いのではないかと思います。
無論、作者の趣味・趣向が反映されていることはいうまでもありませんが。

大藪春彦作品は昭和時代を映し出す鏡

そんななか、日本におけるハードボイルド小説の先駆者である大藪春彦は、作中のキャラクターと作者自身を同化させている人物であったと思います。

『野獣死すべし』『蘇える金狼』『汚れた英雄』が代表作になると思いますが、早稲田大学教育学部英文学科在学中に『野獣死すべし』を発表して、一躍〝売れっ子作家〟となった大藪は、これまでの貧弱な食生活に復讐するかのように、好き放題に食材を買い込み、外食に出掛けます。

実際のところ、大藪自身は『野獣死すべし』がベストセラーとなり映画化された(大藪が映画化の際に受けとった原作料は大卒初任給1万3000円の時代に50万円でした)といっても、専業作家・筆一本の生活に不安を覚えて、教員免許取得を目指して都内の私立女子高で教育実習をおこなっています。

ただ、その実習で黒板に銃の絵を描いて女子高生相手に銃の構造を説明したところ、現場の教師に怒られたエピソードもあるようですが。
また、卒業論文も執筆しましたが、作家稼業が多忙になり、結局のところ教員免許取得はできないまま早大を中退しています。

さて、大藪作品の特徴は、銃やクルマなどのメカニックについての描写が延々と続くイメージがありますが、実際のところは、作中全体にあらゆるもののディテールが盛り込まれています。

例えば、1960年代に書かれた大藪作品を読むと、時代背景や舞台となった場所の様子が克明に書かれています。
1970年代に描かれた作品も同じです。

大藪春彦は作品執筆中に少しでも気になることがあると、徹底的に調べ、時には自ら赴いて場所を正確に確認することを怠りませんでした。

そして、これは食事に関してもです。

大藪春彦の食生活

大藪春彦は早大在学中の1958年(昭和33年)に『野獣死すべし』でデビューを果たし、一躍ベストセラー作家となると、23歳の若き青年作家は、小説執筆のエネルギー源として、買い物かごいっぱいに食材を買い込みます。

“「毎日、モツの焼き肉2キロ。カニだとでっかい毛ガニ三匹。マグロだとネギマ用の骨つき大なべにいっぱい」”
(引用:大藪春彦『荒野からの銃火』1979年 角川文庫より)

1961年(昭和36年)に、大藪は静龍子さんと結婚します。
龍子さんは日本大学文学部卒業後に、森脇文庫の『週刊スリラー』の編集者となり、大藪の担当編集者になったのが縁でした。

1996年(平成8年)2月26日に大藪春彦は61歳で亡くなります。
大藪と縁の深かった徳間書店では、その年の7月に『問題小説 増刊号 大藪春彦の世界』を出版しています。

この雑誌で、森村誠一と船戸与一が対談をしています。
そのなかで、大藪の早世を悼みながら、

“船戸:「前に大藪さんと対談したときに、新婚当初に夫婦ですき焼きとなるとだいたい一キロ肉を買ってきたというんですね。いくら何でも奥さんは、二百グラムも食えばいいと思うんですよ。そうしたらやっぱり大藪さんが八百グラム食っている(笑)」

森村:「めちゃくちゃなパワーですよね」”

という箇所がありますが、実際に大藪春彦と船戸与一が対談をした『諸士乱想 トーク・セッション18』(1994年 ベストセラーズ)を読むと、

大藪は、“「(龍子夫人と)ふたりですき焼きをするときには、肉を三キロ入れて食った」”

と語っています。

大藪春彦も船戸与一も故人となったいまでは、確認の仕様もありませんが、当時は、今よりも高級品だったすき焼き用の牛肉を大量に食べていたことだけは間違いないでしょう。

気に入った食材・食事には徹底的に凝る

イノシシのすき焼き

作家デビューを果たし、一躍流行作家となった大藪春彦は膨大な原稿を書きながら、狩猟にも精を出します。

あるとき、友人が和歌山県有田市にイノシシ猟に行き、大成果を挙げた報告を受けた大藪は居ても立ってもいられず、仕事を無理矢理に片付けて、勇躍、有田に向かいます。
大藪もイノシシ猟で大きな成果を挙げて、夜には地元の人と酒を飲みながらイノシシ肉を平らげます。

これが3日続いたあと、すっかりイノシシ肉を気に入った大藪は、お土産に大量のシシ肉を持ち帰り、東京でもイノシシ肉のすき焼きを楽しみます。

しかし、このときの大藪は鯨飲馬食で血圧が上昇していました。紀州でイノシシを追い続けていた3日間は汗まみれになって活動しているからいいのですが、東京で手先しか動かさない日々に戻ると、慢性的な睡眠不足と精神的な疲労もあり、大量の鼻血を鼻から吹き出す仕儀となります。
(イノシシ肉を大量に食べ続けると赤血球を破壊する作用があるようですね)

それでも、編集者は横で原稿を急ぐようにせっつきますが、ついに意識が朦朧としてきた大藪は病院に担ぎこまれて、1ヶ月ものあいだ、輸血を受ける羽目になります。
そのあいだも、大藪は口述筆記で仕事を続けなければなりませんでした。

世界中のチーズを味わう

1963年(昭和38年)頃には、チーズに凝ります。
世界中のチーズを収集して、グリュイエールをパンと同じ厚さに切ってロシアピクルスと一緒にサンドイッチにしてパクつきます。

しかし、ブルーチーズは分厚く切るのではなく、薄く切って2,3切れつまむほうが風味を味わえるとの結論に達します。

ちなみにチーズについては、一体どれだけの量を集めたのか、最後には冷蔵庫から耐えがたい肥だめのようなニオイを発し出したというオチがつきました。

BAR OYABU オーナーバーテンダー・大藪春彦

この頃には、酒も自家製カクテルに凝り出します。
ウォッカ・マルティーニ(ウォッカ・マティーニ)をストリーチナヤ(ストリチナヤ)のウォッカを2本分痛飲します。

また、自家製カクテルでは、ジンフィズに凝った時期もあり、各社の担当編集者は、バーテンダー・大藪春彦に付き合わされることになりました。

ボロニアソーセージ・レバーソーセージがお気に入り

また、ソーセージにも凝りました。
大藪はハムが好きではなく、ソーセージが大好物でした。
ソーセージのなかでも、ボロニアソーセージやレバーソーセージがお気に入りで、1万円分ほどを買い込んでは、3日と保たず食べ尽くしました。

ちなみにこの話は1966年(昭和41年)に発表されたものです。
当時の大卒初任給は24,900円。
そんな時代に、1万円分のソーセージを3日足らずで食べ尽くしてしまうエネルギーには驚かされます。

「男の料理は俺に任せろ!」シェフ・大藪春彦

大藪春彦は自分で料理をすることもありました。

自信のメニューはカツオのたたき、ビーフステーキ、ローストビーフ。

ときには、家族で、そして自宅に集った仲間に振る舞い。好評を博したようです。

自身の作品世界に登場する主人公・伊達邦彦 朝倉哲也 北野晶夫 西城秀夫 石川克也 杉田淳たちが好むメニューを大藪自身も好みました。

肉類だけではなく中華料理や魚介類も好物

元々、大藪は中華料理好きでしたが、香港に取材旅行に赴いた際に現地で味わった美味が忘れられず、帰国後は、“「同じような味にめぐり会いたい」”と横浜中華街を一軒一軒試し歩きます。
大金をはたいて、巡礼者のごとく中華街をうろつきますが、満足できる店が見つからず、ついにあるお店で〝アワビのハラワタのからあげ〟を見つけたときは、感動をしたようです。
(これは馳星周の『マンゴープリン』のエピソードと少し似ていますね。)

また、大藪春彦=肉類・ステーキというイメージがありますが、海産物も大好きで、新潟に猟へ出掛けた際には、寒ブリと子持ちスケソウダラ、そして越後米の味に感激しています。

ウニ・アワビ・エビなどは、わざわざ新鮮なものを求めて、海岸にある店に食べに出掛け、晩酌の肴に刺身を食べるときは、最低3人前を食べないと気が済みませんでした。

海外ハンティングと野性の味覚

大藪春彦は1964年(昭和39年)の終わりに、東南アジアとヨーロッパを訪れます。
そして、〝アブランド・ゲーム〟と呼ばれる、ヤマドリ・キジ・コジュウケイなどを標的とする猟にのめり込みます。

そして、1970年代に入ると、本格的に海外にハンティングに出掛けるようになります。

1972年 アラスカ

1973年 ニュージーランド・オーストラリア

1975年 アフリカ・ザンビア

1977年 モンゴル・ハエ・アルタイ山脈、カナダロッキー、モンタナロッキー

1980年 アフリカのサファリ

1981年 アメリカでシューティングツアーに参加

1982年に急性膵炎に倒れるまで、世界中で〝ザ・ビッグ・ゲーム〟を続けました。

そのなかで、野性の味に舌鼓を打ちます。

大藪曰く、

・ムース(大ヘラジカ)は、ステーキやカツレツにすると美味い。

・赤シカはステーキやシチューにするといい。ただしメス。

・ナイル川を泳ぐナイルワニの尻尾は、エビの味に似ている。

・象の鼻はゼラチン質。

・オーストラリアのオオトカゲのしっぽの蒸し焼きは、イカの生干しそっくりの味。

前述しましたように、1982年に大藪は膵炎に倒れます。そして、亡くなるまでに3度の入院を経験して、最後までこの病に悩まされることとなります。

晩年の大藪春彦は、酒もほとんど飲まず、タバコも1日5本までに制限されます。

それでも、退院後は、ラーメンを食し、やがて大盛りを頼むようになります。

最晩年は、自宅近くのそば屋の天盛りを好みました。(もちろん、大盛りです)

1996年2月26日 夕方近く 大藪春彦はこの世から旅立ちました。

享年61。

最後に食したのは、龍子夫人とともにした昼食で出された甘塩鮭でした。
自分のぶんを平らげると、龍子夫人の分まで手を付けます。

大藪春彦は、最後までグルマン・食いしん坊を貫き通しました。

大藪春彦の愛犬チリーも食いしん坊だった

大藪春彦は鳥猟の相棒として、チリーと名付けたセッターを千葉県のハンターから譲り受けました。

大藪の相棒として、そして猟犬としては優れていましたが、大藪が仲間と狩りに出掛けて、仲間が撃った鳥は口にくわえて戻ってこずに、土の中に埋めてしまうという癖もありました。

ある日、大藪が家族とともに自宅に戻ると、異臭が漂っていました。

チリーが大藪の酒の肴であるスルメを大量に食べて、水を飲み、胃の中で膨らんだスルメを吐き出していたからです。

ビックリする大藪家の面々をよそに、チリーは洋室でグーグーと大いびきをかきながらお休み中でした。

チリーは、大藪の晩酌風景を見ていて、スルメに興味を持ったのでしょう。

家庭に飼われる犬としては、少し間抜けな面があったようですが、チリーは大藪家にとってかけがえのない家族だった、と思います。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

人物伝

日本百貨通信販売・杉山グループ総帥 杉山治夫の生涯 その3

杉山治夫が唯一尊敬していた人物

はる坊です。

その2では、杉山治夫が経営していた時計店・家電量販店を倒産させて、高知の金融業者の元で働き、再び、事業を興すも再度倒産。融通手形が市中に流れてしまい、結果、六甲山中に埋められそうになりますが、危機一髪でこの状況を脱して、金融業に深く入り込み、やがて組織を離れて東京進出を考えるまでをご紹介しました。

それでは引き続き、杉山治夫の生涯をみていきましょう。

あるとき、組長から東京出張の命令を受けた杉山は、暴力団員3名とともに東京の地を踏みました。

日夜、東京で金融債権の取り立てに奔走した、ある夜。

杉山は同行のやくざたちにまとまった額の小遣いを与えます。

やくざたちは喜び勇んで、銀座へ繰り出していきました。

東京滞在中、杉山はある人物に十数回も電話を掛けていました。

その人物の名は、小林大二郎。
杉山の著書によると、政財界に顔の利く大物だったようです。

といっても、杉山が一方的に小林氏のことを知っているだけで、小林氏は杉山のことなどまったく知りません。

話を少し昔に戻します。

杉山は高知時代、24歳にして地元の県立高校定時制に入学、29歳で卒業。

その後、中央大学法学部通信教育課程に入学しています。

その頃、杉山の元には、ある新聞が送られていました。

『定通新聞』

その名のとおり、〝定時制〟〝通信制〟の学校に通う生徒・学生に送られてくる新聞です。

この新聞は、戦後に発足した『勤労学生を励ます会』が苦学生の為に、資産家や大企業から献金を募って、集まった金を奨学金の形で与え、新聞を発行していました。

杉山は、この新聞をよく読んでいました。

一度、勤労学生が一日も休まず授業に出席すると与えられる『努力賞』を杉山は授与されており、これまでに賞などと無縁だった杉山は、大きな感動を覚えたといいます。

この新聞の編集主幹だったのが小林大二郎氏でした。
杉山は、小林氏に憧れを抱きます。

杉山が高知から大阪に移ったあとも、『定通新聞』からの手紙は届きました。
勤労学生を励ます会の案内状でした。

杉山も、一、二度はこの会に出席しました。

そのとき、遠くから小林氏の姿を初めて目にすることになります。
初老で丸顔、人の良さそうな紳士でした。

杉山は、小林氏と話してみたい衝動に駆られます。
実際、小林氏に近付いて、「先生」と声を出しかけました。
ですが、杉山はそれ以上、小林氏に近付くことはできませんでした。

小林大二郎氏の周囲には、学生服を身に付けた勤労学生たちがいました。
彼らと談笑する小林氏の姿を見て、杉山は、ハッと我に返ります。

『定通新聞』の一読者だった頃、杉山は、真面目に働きながら夜間部で学ぶ学生でした。
時は流れて、現在は大阪の暴力団の取り立て屋をしている自分自身が、小林氏に話しかけることに躊躇を覚え、その場に立ち尽くすだけだったのです。

しかし、大阪の暴力団から逃れようとしているとき、東京に友人も知人もいない杉山がすがる相手は小林大二郎氏しかいなかったのです。

杉山は、その後も小林氏に面会を求め続けます。

二度目の東京出張時でも無理でした。

杉山は大阪から手紙を書いて、どうにか面会の許可を得ようとします。

そして、三度目の東京出張。

同伴のやくざは、吉原あたりに遊びに行きました。

杉山は品川のホテルから、小林氏に電話を掛けました。

杉山の熱意が通じたのか、小林氏は面会を承諾しました。

翌日、杉山は九段のホテルで、小林氏と面会を果たします。

杉山は、小林氏の前では直立不動で、弟子入り・カバン持ちを志願します。

この日は、顔合わせで終わりましたが、その後、杉山は東京出張の際には、小林氏に電話攻勢を掛け続けます。

しかし、ある時、同行したやくざが杉山の行動を怪しみます。

「東京に来て、いつもどこをほっつき歩いてんのや?」

そこで、杉山は小林氏と面会した帰りに、ポケットウイスキーを購入して、ホテルに帰る直前に口に含んで、アルコールの匂いをまき散らしながら部屋に戻ることにしました。

それでも、同行しているやくざは、杉山を怪しみ続けます。
杉山を見張る為に、ベッドでひそかに起きているのです。

その様子を見た杉山は、大阪の暴力団から抜け出すときが来たことを認識しました。

杉山の一方的なアプローチに、小林大二郎氏も存在を認め始めていました。
大阪の暴力団の債権取り立てと並行して、小林氏のカバン持ちをさせてもらえるようになったのです。

しかし、ひとつ問題がありました。
杉山は自分の素性を「大阪のローン会社の社員」と偽っていたのです。
たしかに金融関係の仕事ではありますが、杉山が在籍していたのは暴力金融です。

そして、ある夜遅く、小林氏の自宅でふたりきりになった杉山は、自分が暴力団に張られていると話します。

取り立てをしていることは伏せましたが、やくざにつけ回されていることを強調して熱弁を振るいました。

杉山から話を聞いた小林氏は、

「わかりました」

とうなずきました。

そして、

「暴力団を信用するのか、私を信用するのか、どちらかひとつですよ」

と続けます。

小林氏に迷惑を掛けることを恐れた杉山は、率直に自分の気持ちを訴えます。

そんな杉山に対する小林氏の態度は堂々たるものでした。

「いいや、だいじょうぶ。そんな弱い男ではありません。安心しなさい。どんな組織の人間であろうとおじける私ではありません。ゆっくり飲んでいきなさい。堂々とからだを張ってみてはどうですか。今夜は腹を割って話しましょう。くよくよ思い悩まずに、とにかく話してみなさい」

この言葉を聞いて、杉山は暴力団から足を洗い、正式に東京に居を構えて、ゼロからやり直すことを決断します。

1973年3月 杉山治夫35歳の春でした。

杉山治夫東京進出。金融取り立て人として名を馳せる

杉山治夫は、大阪を引き払って、鈍行列車に揺られて東京へ向かいます。

杉山が降り立ったのは、川崎でした。

東京都内では、自分の行動範囲が大阪の暴力団に知られていることを危惧したのです。

杉山は、川崎の安旅館に泊まり、大阪で付き合いのあった18歳の女性に連絡を取ります。
次の日、その女性は川崎にやってきました。

川崎駅のホームで待っていた杉山は、その女性を、川崎・堀之内の高級ソープランドに勤めさせます。

暴力団の報復を恐れたのでしょう。杉山はヒモとなって、しばらく身を隠すことにしたのです。

しかし、杉山はただのヒモ生活に安住する男ではありませんでした。

ソープ嬢が稼いだ月々100万円の金の大半を、川崎のポン引きやギャンブル狂いの男たちに貸し付けたのです。

100万円の金は面白いように増えていきました。

そして、1974年に杉山は東京・新宿へ移ります。

杉山が新たな基地として構えたのは、新宿二丁目のエレベーターも冷暖房もない朽ち果てた雑居ビルの一室でした。

1年間、川崎で過ごしたおかげで、関西の暴力団の追っ手に見つかることはありませんでしたが、今後、身を守る術を考えます。

それは、関東の暴力団とつながりを持つことでした。

すぐに、関東の暴力団のあいだでは、杉山の存在が話題になり始めました。

-杉山に頼めば、取り損なった金を必ず回収してくれる。
-杉山の取り立ては百発百中だ。

地元高知と大阪で学び続けた、法律知識。
そして、大阪の暴力団の元で体験した、暴力的取り立て法は関東でも有効でした。

杉山自身は、法と暴力の両方をもって取り立てる方法を、東京に持ち込んだのは自分だと考えていたようです。

〝杉山式取り立て法〟は、関東の消費者金融・事業者金融界を席捲しました。

連日、早朝・深夜を問わない訪問。
正真正銘の暴力団員が乱暴にドアを叩き、土足で部屋に上がり込むと、短刀や拳銃をチラつかせる。
留守であった場合は、〝差し押さえ予告〟の張り紙をところ構わず貼り付ける。

また、勤務先まで乗り込んでは、机を倒して暴れまくる。

〝杉山式〟によって、関東のサラ金業界では、貸倒れが激減していきました。

それとともに、借金苦による自殺・一家心中・犯罪も激増したことを杉山自身も認めています。

暴力団相手の債権取り立てにも進出する

東京進出後の杉山は、やくざがらみの金融債権取り立てと金融業を生業としますが、やがて、裏社会の仕事にも手を染めるようになります。

十日で一割の利息を取る、いわゆる〝トイチ〟は、当時でも違法でしたが、他から金を借りることのできない人間は、それでも金を借ります。

こういった人間は、杉山が取り立てる際に、自分もやくざを使って、取り立てを追い返すケースもあったようです。

そんなとき、杉山は相手の倍の人数と暴力的手法で、取り立てをおこないました。歌舞伎町の路上で斬り合いになったこともあるようで、まさに命を賭けたやりとりをおこなっていたといえるでしょう。

杉山は、こんなことを語っています。

「表の世界で儲けるとなるとなかなか大きくは儲けられない仕組みになっている。ところが裏の世界にまわるとそこは治外法権、無法地帯だ。なんの防御手段もないかわりに、法で縛られない自由がある。儲けの額も桁外れだ。やくざから取り立てられるのではなく、逆にこちらがやくざからふんだくるのだ。一ヶ月二、三十万のちびた金で働く堅気からまきあげるより、こいつらからまきあげたほうが十数倍も儲かるのだ。これがまさに裏の世界の稼ぎ方である」〟と。

恐ろしい限りですが、実際に裏の世界で仕事をしてきた人物の言葉だけに説得力はあります。

そんなある冬のこと、杉山の事務所にふたりのやくざが乗り込んできました。

かつて、杉山が在籍していた大阪の暴力団に所属する組員でした。

彼らの左手小指を見ると、第二関節から先がありませんでした。

杉山を連れ戻せなかった責任を取らされたのです。

殺気を放つふたりを前にしても、杉山は落ちついていました。

杉山はその場で一本の電話を掛けました。

相手と談笑をしたのち、電話を切ると、杉山はふたりに言い放ちます。

「早く帰ってこいとよ。あんたらの親分さんがな・・・」

杉山は、関東の組織を通じて、大阪の組へ事務所開きの挨拶を済ませていたのです。
上の者同士の話し合いで、杉山の件は、解決済みでした。

杉山は、引き出しの中からひと束の現金を掴むと、あっけにとられているやくざふたりに向かって投げました。

日本百貨通信販売を核にして、杉山グループを形成する

杉山治夫の地盤は着実に構築されていきました。

金融債権取り立て・事件屋・会社乗っ取り。

そして、日本百貨通信販売を核として、杉山グループを形成していきます。

社長は杉山治夫。
そして、会長には小林大二郎氏が就任しました。

杉山は、自分の仕事は中小企業に多額の資金を貸し与えていると説明していたようです。
政財界に顔が利いたという小林氏の存在は、杉山にとって大きかったのでしょう。

もっとも、この頃には、小林氏に対する尊敬や憧れの念よりも、杉山自身にとってどれだけメリットがあるかで、判断するようになっていたようですが・・・

杉山は、どこまでも狡猾でした。

暴力装置として暴力団を置き、合法的装置としては完全犯罪を研究し続ける、〝完全犯罪マニア〟の弁護士を配置。さらに、情報・調査機関として『NCIA秘密調査探偵局』を創設。
これは、金融債権取り立ての際に、逃亡者の行方を捜すのに有効だったようです。

また、社員も、天才的詐欺師。前科十六犯のボディーガード・手形パクリ屋・元右翼系総会屋・取り立て23年のベテラン等々。

小林氏は会長にありながら、名誉職でしかなく、実権は杉山治夫ひとりが掌握しました。
これは、高知時代に2回の会社倒産を通じて経験した、苦い教訓を活かしたのでしょう。

数年後、小林大二郎氏は、杉山治夫の正体を知らないままか薄々は知っていたのかは不明ですが、胃癌で世を去ります。

杉山治夫率いる杉山グループは、更に躍進を続けます。

(その4に続きます・後日更新予定です。)

※参考文献・一部引用

杉山治夫『実録 悪の錬金術―世の中金や金や!

杉山治夫『ドキュメント新 悪の錬金術―世の中・金や金や!

杉山治夫『ドキュメント 新・悪の錬金術―世の中・金や金や!杉山治夫・自叙伝

本橋信宏『悪人志願

本橋信宏『心を開かせる技術

長者番付

長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1974年分~1983年分)

個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。

ここでは1974年(昭和49年)から1983年(昭和58)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。

ちなみに、1982年分(昭和57年)までは納税額ではなく申告所得額が発表されていました。

1981年分(昭和56年)までは、ベスト10。1982年分(昭和57年)以降はベスト20までを列挙しています。

1983年度(昭和58年)からは、発表されるのが申告所得額から所得税納税額に変更されています。
この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。

ソースは、当時の新聞報道によるものです。

申告所得額とは?
簡単に説明をしますと、実収入ー経費=申告所得になります。
小説家の経費は実収入の30%が認められていたようです。
例)実収入・・・1億円
経費・・・3000万円
申告所得・・・7000万円

この申告所得に下の所得税率が掛かるのです。

当時の所得税率は恐ろしいものでした!

1974年分~1983年分の所得税率は、過去・現在に至るまで日本の所得税率の推移を見た上で、最も税率が厳しかった時代です。下の税率表をご覧になっていただくと、国税ではなく“酷税”と呼ばれていたことがご理解いただけるかと思います。

1974年分~1979年分は所得税+住民税=最高93%時代!

1974年分~1983年分の所得税率について

なんと19分類に分かれていました。

課税所得60万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
課税所得60万円超~120万円以下・・・・・・12%
課税所得120万円超~180万円以下・・・・・14%
課税所得180万円超~240万円以下・・・・・16%
課税所得240万円超~300万円以下・・・・・18%
課税所得300万円超~400万円以下・・・・・21%
課税所得400万円超~500万円以下・・・・・24%
課税所得500万円超~600万円以下・・・・・27%
課税所得600万円超~700万円以下・・・・・30%
課税所得700万円超~800万円以下・・・・・34%
課税所得800万円超~1000万円以下・・・・38%
課税所得1000万円超~1200万円以下・・・42%
課税所得1200万円超~1500万円以下・・・46%
課税所得1500万円超~2000万円以下・・・50%
課税所得2000万円超~3000万円以下・・・55%
課税所得3000万円超~4000万円以下・・・60%
課税所得4000万円超~6000万円以下・・・65%
課税所得6000万円超~8000万円以下・・・70%
課税所得8000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・75%

参考までに、1974年分~1979年分の住民税の税率です。

1973年分から使用されていましたが、細かく13分類に分かれていました。

課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
課税所得30万円超~50万円以下・・・・・・・5%
課税所得50万円超~80万円以下・・・・・・・6%
課税所得80万円超~110万円以下・・・・・・7%
課税所得110万円超~150万円以下・・・・・8%
課税所得150万円超~250万円以下・・・・・9%
課税所得250万円超~400万円以下・・・・・11%
課税所得400万円超~600万円以下・・・・・12%
課税所得600万円超~1000万円以下・・・・13%
課税所得1000万円超~2000万円以下・・・14%
課税所得2000万円超~3000万円以下・・・15%
課税所得3000万円超~5000万円以下・・・16%
課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%

よって、1974年分~1983年分の所得税と住民税の最高税率は驚愕の93%でした。

参考までに、1980年分~1983年分の住民税の税率です。

1984年分まで使用されていました。さらに細かく14分類に分かれていました。
課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
課税所得30万円超~45万円以下・・・・・・・5%
課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・6%
課税所得70万円超~100万円以下・・・・・・7%
課税所得100万円超~130万円以下・・・・・8%
課税所得130万円超~150万円以下・・・・・9%
課税所得150万円超~230万円以下・・・・・11%
課税所得230万円超~370万円以下・・・・・12%
課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13%
課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14%
課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15%
課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16%
課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17%
課税所得4900万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%

よって、1980年分~1983年分の所得税と住民税の最高税率は、驚異の88%でした。

長者番付・作家部門(1974年分~1983年分)です

1974年(昭和49年)分申告所得額

1位 松本清張   3億0959万円

2位 司馬遼太郎 2億1463万円

3位 五木寛之   2億1226万円

4位 遠藤周作   1億8637万円

5位 石川達三   1億0710万円

6位 山岡荘八   1億0283万円

7位 宇能鴻一郎    9712万円

8位 北杜夫      8803万円

9位 川上宗薫     8488万円

10位 花登筺      8023万円

1975年(昭和50年)分申告所得額

1位 松本清張 3億0027万円

2位 司馬遼太郎 2億3512万円

3位 五木寛之 2億2587万円

4位 石川達三 1億3422万円

5位 遠藤周作 1億3403万円

6位 横溝正史 1億1547万円

7位 有吉佐和子 1億1474万円

8位 山岡荘八 1億1259万円

9位 宇能鴻一郎 1億0656万円

10位 井上ひさし 9484万円

1976年(昭和51年)分申告所得額分

1位 松本清張   3億3461万円

2位 司馬遼太郎  3億3032万円

3位 横溝正史   3億3825万円

4位 五木寛之   1億4125万円

5位 森村誠一   1億1042万円

6位 城山三郎   1億0654万円

7位 宇能鴻一郎  1億0477万円

8位 石川達三   1億0237万円

9位 遠藤周作    9947万円

10位 高木彬光    8799万円

1977年(昭和52年)分申告所得額分

1位 森村誠一   6億2264万円

2位 横溝正史   4億0416万円

3位 松本清張   3億0545万円

4位 司馬遼太郎  2億1785万円

5位 新田次郎   1億7766万円

6位 五木寛之   1億5034万円

7位 城山三郎   1億2768万円

8位 梶原一騎   1億1504万円

9位 高木彬光   1億0564万円

10位 池波正太郎  1億0470万円

1978年(昭和53年)分申告所得額分

1位 森村誠一   4億3139万円

2位 松本清張   3億1856万円

3位 西村寿行   2億3487万円

4位 司馬遼太郎  1億8863万円

5位 五木寛之   1億7058万円

6位 横溝正史   1億6815万円

7位 新田次郎   1億5140万円

8位 有吉佐和子  1億4812万円

9位 池波正太郎  1億3878万円

10位 梶原一騎   1億3240万円

1979年(昭和54年)分申告所得額分

1位 西村寿行   2億6932万円

2位 大藪春彦   2億3452万円

3位 五木寛之   2億2013万円

4位 高木彬光   1億9313万円

5位 松本清張   1億7942万円

6位 司馬遼太郎  1億7085万円

7位 池波正太郎  1億5487万円

8位 横溝正史   1億5360万円

9位 花登筺   1億5085万円

10位 半村良   1億4451万円

1980年(昭和55年)分申告所得額

1位 司馬遼太郎  3億0102万円

2位 五木寛之   2億7570万円

3位 西村寿行   2億5017万円

4位 松本清張   2億4733万円

5位 大藪春彦   2億0029万円

6位 井上靖    1億6792万円

7位 森村誠一   1億4427万円

8位 遠藤周作   1億2251万円

9位 池波正太郎  1億1704万円

10位 小松左京   1億1435万円

1981年(昭和56年)分申告所得額

1位 司馬遼太郎  2億9193万円

2位 石坂洋次郎  2億1670万円

3位 西村寿行   1億8746万円

4位 松本清張   1億7853万円

5位 横溝正史   1億4582万円(発表時故人)

6位 五木寛之   1億4264万円

7位 森村誠一   1億4254万円

8位 勝目梓    1億4065万円

9位 笹沢左保   1億3832万円

10位 遠藤周作   1億2961万円

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1982年(昭和57年)分申告所得額

1位  松本清張   3億1489万円

2位  赤川次郎   2億7041万円

3位  西村寿行   2億5946万円

4位  司馬遼太郎  2億5731万円

5位  森村誠一   2億4362万円

6位  笹沢左保   1億7016万円

7位  渡辺淳一   1億4707万円

8位  大藪春彦   1億3650万円

9位  池波正太郎  1億1935万円

10位 井上ひさし  1億1861万円

11位 平岩弓枝   1億1492万円

12位 田辺聖子   1億0886万円

13位 西村京太郎  1億0720万円

14位 黒岩重吾   1億0158万円

15位 遠藤周作   1億0131万円

16位 筒井康隆    9823万円

17位 五木寛之    9800万円

18位 梅原猛     9545万円

19位 井上靖      9295万円

20位 平井和正     9003万円

1983年(昭和58年)分所得税納税額
1位  赤川次郎   4億0838万円

2位  松本清張   1億9201万円

3位  司馬遼太郎  1億5360万円

4位  西村寿行   1億2588万円

5位  西村京太郎  1億0969万円

6位  笹沢左保   1億0733万円

7位  渡辺淳一   1億0117万円

8位  平岩弓枝     9085万円

9位  池波正太郎    8353万円

10位  筒井康隆     8005万円

11位  森村誠一      7933万円

12位  田辺聖子     6815万円

13位  勝目梓      6167万円

14位  大藪春彦     6043万円

15位  平井和正     5800万円

16位  中島梓(栗本薫) 5155万円

17位  和久俊三     5149万円

18位  斎藤栄      5100万円

19位  三浦綾子     5085万円

20位  遠藤周作     5026万円

1984年から1988年分はこちらです。

1989年から1995年分はこちらです。

人物伝

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その5

1980年代の西村寿行

はる坊です。
まず、1980年代になっても、西村寿行がどれだけ売れていたのかを示すデータから。
俗にいう長者番付。高額納税者番付作家部門です。
1983年度分からは、従来の申告所得額ではなく、納税額が公示されるようになりました。

1983年度分 1億2,588万円 4位
1984年度分 1億5,615万円 5位
1985年度分 1億3,745万円 5位
1986年度分 1億1,809万円 5位
1987年度分 1億3,190万円 4位
1988年度分 1億0,072万円 5位
1989年度分   9,508万円 7位
1990年度分   8,185万円 6位

1980年度分から1990年度分までに公示された申告所得額・納税額をみると、
この時代に売れて税金を多く納めた作家は次の順になります。
1位 赤川次郎   6位  池波正太郎
2位 西村京太郎  7位  森村誠一
3位 司馬遼太郎  8位  笹沢左保
4位 西村寿行   9位  渡辺淳一
5位 松本清張   10位 遠藤周作

西村寿行は、なぜ、ここまで売れたのか?
・小説本がもっとも売れた昭和50~60年代に活躍したこと。

・1975年の『君よ憤怒の河を渉れ』以降、特に77年からは、毎月のように新刊を出し続け、その全作が水準以上の出来栄えで、西村寿行作品は面白いという評価を読者から受けていたこと。

1975年に角川書店が角川文庫を発刊して、西村寿行作品に廉価で身近に触れられたこと。角川文庫の売り上げ部数は、横溝正史・赤川次郎・森村誠一に次いで歴代第4位です。

・寿行作品の多くを出版した徳間書店が、80年に徳間文庫を発刊して、ここでも寿行作品が文庫化されたこと。

さらに、徳間書店では『西村寿行選集(NISHIMURA HARD-ROMAN SERIES)』をノベルスで別に刊行し続けたこと。

新刊のハードカバー・ノベルスは15万部程度売れ、文庫の初版は20万部。
もちろん、増刷が繰り返されます。

徳間書店の創業者・徳間康快(とくま やすよし《名前はこうかいとも呼ばれました》)は反権力の立場にいる作家を愛しました。
なかでも大藪春彦とは親友同士で、大藪の葬儀で弔辞を読んだのも徳間康快でした。

エンタメ系のプロ作家が対象の大藪春彦賞も制定しています。

賞金300万円は、デビュー後の作家がもらえる賞の賞金としては、柴田錬三郎賞と並んで最高額タイです。

実業家としては、本業の徳間書店のほかにも、スタジオジブリの初代社長も務めています。
また、映画会社の大映や徳間ジャパンの経営もおこないました。

〝徳間文庫、いや、徳間書店を支えている一因は西村寿行〟と囁かれるほどの人気ぶりでした。

しかし、一番の理由は、

“俺は芸術家じゃなくて、職人だから、面白おかしく書いて、たくさんの人に読んでもらえればいいんだ。”

と語っていた読者を大切に考える西村寿行自身の姿勢にあったと思います。
では、年ごとに出版された作品をみていきたいと思います。

1983年(昭和58年)に刊行された本

『霖雨の時計台』『宴は終わりぬ』(唯一のエッセイ集)『石塊の衢』『鬼(中編集)』『狼のユーコン河』『濫觴の宴』『花に三春の約あり』『魔境へ、無頼船』『幻戯』『頻闇にいのち惑ひぬ』『襤褸の詩』
エッセイを含んで11冊を上梓しています。

この年の作品では、田中邦衛主演でドラマ化された『霖雨の時計台』が白眉です。

インタビュー嫌いの西村寿行にしては珍しく、この『霖雨の時計台』に関しては、この小説に対しての強い思い入れを取材に応じて、機嫌よく語っているのです。

同時に、幻想小説として傑作であり、夢枕獏が雑誌掲載時に驚愕したという『鬼(中編集)』はおすすめです。

また、『花に三春の約あり』は『峠に棲む鬼』のヒロイン・逢魔麻紀子の娘、逢魔紀魅が登場します。


そして、『襤褸の詩』では『蘭菊の狐』のヒロイン・出雲阿紫が再登場しますが、扱いが他の寿行作品で描かれるヒロインと同じ道を辿ったのが、個人的には残念でした。

生涯で唯一刊行されたエッセイ集『宴は終わりぬ』は人間・西村寿行が余すところなく感じられて面白いです。

また、表紙の絵を愛娘の西村亜子さんが描いています。そして題字は西村寿行本人によるものです。

1984年(昭和59年)に刊行された本

『空蝉の街』『監置零号』『鉛の法廷』『風紋の街』『妖しの花乱れにぞ』『垰 大魔縁』『垰よ永遠に』『夢想幻戯』『沈黙の渚』『緋の鯱』『黒猫の眸のほめき』『憑神(中編集)』
12冊を上梓しています。
垰シリーズが、『垰よ永遠に』をもって終わりました。
『鉛の法廷』は司法で裁くことができない犯罪者を、私設裁判所にて裁くという重くも救いのある作品です。
『黒猫の眸のほめき』は、西村寿行が主役です(物語の序盤に西村寿行は、実際の愛車で、本当に1リットルで2キロしか走らなかったという、恐ろしく燃費の悪いチューンアップ済みのメルセデスベンツ500SLC AMG仕様に乗って登場しますが、その後は・・・)。『地獄』の世界観を楽しめるのなら、この作品も面白いはずです。

1985年(昭和60年)に刊行された本

『雲の城(中編集)』『牙(短編集)』『異常者』『鬼の跫』『人類法廷』『ガラスの壁』『無頼船、極北光に消ゆ』『鷲の巣』
上梓した冊数は8冊に減りました。
ポリティカルフィクションというジャンルにあてはまる『人類法廷』『ガラスの壁』が刊行されます。
寿行作品中期以降のなかでも異質な存在感を放つ、『異常者』もこの年に発表されています。

これは読み手によって様々な意見があると思うのですが、個人的にはこの1985年に発表された作品あたりから、徐々に全体のバランスが崩れた作品が出始めたように感じます。

夢枕獏・菊地秀行が伝奇バイオレンス・伝奇アクション小説を書き出した時期

前年の84年に、西村寿行の影響を公言している夢枕獏の伝奇バイオレンス小説『魔獣狩り 淫楽編』『魔獣狩り 暗黒編』『闇狩り師』が単巻で10万部以上のヒット作になります。

『闇狩り師』を刊行した徳間書店の編集者は“「ウチはもう完全なバックアップ態勢です。第二の西村寿行になりうると確信しています」”と発言しています。(出典:週刊文春1984年9月27日号「バイオレンスのニューパワー夢枕獏の正体」より)

当時、夢枕獏自身がインタビューで“「昨年(前年の1983年分)の年収は780万円だったのに、今年は6800万円でした。あるときに、通帳記帳に行ったら、機械がダダダッて印字がとまらなくて、『来たな』と思いました」”と話しているように、翌1985年分、1986年分では長者番付の作家部門14位に登場します。

そして、この時期から伝奇小説だけではなく格闘小説『餓狼伝』や『陰陽師』の執筆も開始して、月産500~800枚という多産に耐えながら、作家としてのフィールドを拡げていきます。

98年に『神々の山頂』で柴田錬三郎賞を受賞したのを皮切りに、一般文芸を対象とした文学賞にも縁ができはじめ、泉鏡花文学賞、吉川英治文学賞も受賞し、2018年春には紫綬褒章を受章しています。

また、朝日ソノラマで、『魔界都市〈新宿〉』でデビューを果たし、『トレジャーハンター(エイリアン)』やシリーズ『吸血鬼ハンターD』シリーズジョブナイル小説(現在のライトノベル)を書いていた菊地秀行がこの年にノベルス界に進出すると矢継ぎ早に『魔界行Ⅰ(復讐編)』『魔界行Ⅱ(殺戮編)』『魔界行Ⅲ(淫獄編)』『妖魔戦線』『妖魔陣』『妖魔軍団』『妖人狩り』『妖獣都市』など伝奇小説を量産して、そのほとんどが10万部を軽く超えるベストセラーとなりました。

1987年には、21冊もの伝奇バイオレンス小説を主にノベルスで発表して、ベストセラー作家の座を確固たるものにします。

年間10冊以上の新刊を長期間にわたって発表し続け、2017年2月には『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作400冊を達成しています。また、1986年分から1995年分までの10年間、長者番付・作家部門ではベストテンにランクインし続けました。

このような新しい動きがあったことは、西村寿行に追随したバイオレンス小説の大家・勝目梓もその半自伝的著書『小説家』のなかで触れています。

勝目が年間15冊平均でノベルスを出していた時期で、一番多忙であった頃ですが、半自叙伝的な著書に夢枕獏と菊地秀行の台頭を記しているところをみると、当時としては、かなり脅威に映ったのではないかと思います。

1986年(昭和61年)に刊行された本

『珍らしや蟾蜍、吐息す』『死神 ザ・デス』『山姥が哭く(短編集)』『曠野の狼』『無頼船 ブーメランの日』『遺恨の鯱』『時の旅』『癌病船応答セズ』『まぼろしの獣』
長編を中心に9冊を上梓しています。
癌病船シリーズが『癌病船応答セズ』をもって終結しました。

1987年(昭和62年)に刊行された本

『凩の蝶』『魔の山(短編集)』『人間の十字路(短編集)』『陽炎の街』『風の渚』『幽鬼の鯱』『母なる鷲』『コロポックルの河』『旅券のない犬』
昨年同様、9冊を上梓していますが、個人的に消化不良に思える作品が増えてきます。
特に鯱シリーズではそれが顕著に感じられました。
『風の渚』は渚シリーズ最後の作品になりました。

1988年(昭和63年)に刊行された本

『残像(短編集)』『執鬼(短編集)』『賞金犬(ウォンテッド)(短編集)』『道』『無法者の独立峠』『無頼船、緑地獄からのSOS』『幻想都市』『聖者の島』『悪霊刑事』『衄られた寒月(中編集)』
刊行数は久々に二桁、10冊になりました。
この年の作品を読むと、前半は面白いけれど、後半になってからが・・・という感じでしょうか。
『賞金犬(ウォンテッド)』が、1995年オリジナルビデオで映像化されています。北野武監督映画『ソナチネ』の出演がきっかけとなり、演技派俳優として認知をされていく大杉漣も、この作品に出演しています。
(残念ながら、大杉漣さんは2018年2月21日に急性心不全で急逝されました。ご冥福をお祈りいたします)
また、『無頼船、緑地獄からのSOS』は無頼船シリーズ、『幻想都市』は幻戯シリーズ(宮田雷四郎シリーズ)最後の作品となりました。

1989年(平成元年)に刊行された本

『学歴のない犬(上・下)』『頽れた神々(上・下)』『神聖の鯱』『風と雲の街』

息を吹き返したかのように面白い長編が発表されました。
特に『学歴のない犬(上・下)』は作家生活後半で、もっとも優れた長編になると思います。

1990年(平成2年)~1992年(平成4年)に刊行された本

1990年(平成2年)
『呪医 ウィッチ・ドクター』『魔物』『涯の鷲』『矛盾の壁を超えた男』『蟹の目(短編集)』

1991年(平成3年)
『凩の犬』『呪いの鯱』

1992年(平成4年)
『消えた島』『魔獣(短編集)』『鬼の都』『ここ過ぎて滅びぬ』

1990年代に上梓された本を92年分までひとまとめにしてしまいましたが、これには理由があります。
90年代に入ると、思わず首を捻ってしまう作品が増えます。

着想は、さすが西村寿行だなと思わせるのですが、内容にまとまりがなく支離滅裂と感じられるものになってきます。
鯱シリーズの『呪いの鯱』は週刊現代に連載されていますし、その他の作品も雑誌連載・掲載作がほとんどですが、雑誌を読むと他の小説家と比べて浮いている印象を受けざるを得ないのです。

1989年12月、徳間書店では文芸書籍編集部の求人の応募して、中途入社した芝田暁氏が西村寿行の担当編集者になっています。
芝田氏の著書『共犯者 -編集者のたくらみ- 』には、西村寿行番編集者の大変さが綴られています。

第一に、徳間書店が文芸書籍編集部の求人を出した理由は、西村寿行の担当編集者が、あまりの大変さに逃げ出してしまい、先輩編集者たちも敬遠しており、やむを得ず、新たに中途採用で担当編集者を補おうとしたからでした。

その大変さはハンパなものではありませんが、初めて、西村寿行に受け入れられたときの喜びも書かれています。
最初、付き合うのには我慢と時間がかかりますが、一度信頼関係を築けると「ホントに仕方のない人だな」と思いながらも惹きつけられてしまう。
そんな人間的魅力が西村寿行にはありました。

それが、第一線から退いた1990年代にも小説連載の仕事が続いた理由ではないでしょうか。

しかし、この頃、作品の雑誌連載・掲載時の煽り文句も〝不条理〟〝奇想〟〝奇作〟と付けられており、どうにも編集者が扱いに困りだしているのが目に浮かんでしまうのです。

また、1990年度分を最後に長者番付作家部門からも姿を消します。

ですが、この時期になっても、西村寿行の新作は単行本(ハードカバー)で初版5万部。
ノベルスもで初版で5万部が刷られていました。

当時税務署で公示されていた高額納税者と納税額を集計した資料をみると、1991年以降も数年間、年間1,000万円以上を納税していたことがわかります。

〝西村寿行 指〟や〝西村寿行 ポキポキ〟に対する反論

さて、ここからは余談になりますが、ネットで〝西村寿行〟と検索すると、〝西村寿行 指〟や〝西村寿行 ポキポキ〟という検索がされているのに気がつきます。
どうやら、『「金を払うから女性に指を折らせてくれ」と西村寿行が言った』というもののようです。
なかには、〝西○○行〟と卑怯な書き方をしているところもあります。

これに関しては、私は強く否定します。

西村寿行の小説やエッセイを読み、その考え方や人となりを知ると、とてもではないですが、そういう人物だったとは思えないのです。

〝ホステスに対して言った〟〝風俗関係の女性に対して言った〟という文章もネットに上がっていますが、確かな情報ソースがあるわけではなく、大変に無責任で西村寿行の名誉を毀損する書き込みだと思います。

銀座など女性のいるクラブやラウンジを西村は嫌いました。
大流行作家となっても、足を向けることはありませんでした。
これらは西村寿行のエッセイや、その執筆活動をささえた編集者たちの思い出話の中に出て来ます。

また、女性関係でも、長年秘書としてもそれ以上の関係としても作家生活を支えた女性がいること。
一時期は女優と交際したこと。
どこのソープランドへ編集者と連れだって行くことなど、神秘的なイメージを持ちたい作家なら絶対に公言しないことも、「別に隠すことでもなんでもないじゃねえか」というふうに、堂々とあっけらかんとインタビューで答えています。

こういう人物にそのような噂自体そぐわないと思います。

喜怒哀楽が激しい寂しがり屋で、お山の大将気質。
酔いに任せた部分もあったのでしょうが、夜に宴会をしているときには、北海道から九州まで方々へ電話を掛けまくり1日の電話代が2万円に及ぶこともありました。
自身が飲むのは、売れっ子作家となって、年収が毎年3億円になっても、ビールとバーボンウイスキー・アーリータイムズ。
酒が大好きで、気心の知れた仲間と宴会をするのが大好き。

小説家として一番忙しく、そして輝きを放っていた時期には、渋谷区代々木のマンション最上階に構えた仕事場での執筆が終わる18時頃から、各社の担当編集者が西村の元にアーリータイムズ持参で集まり、毎夜、打ち合わせを兼ねた飲み会を開き、週末になると、編集者たちと『雑木の会』という宴会を開いてもいました。

晩年になって、小説の執筆を完全にストップさせてからも、多摩市連光寺の自邸で宴を催した折りには、長年の戦友とも呼べる旧知の編集者だけではなく出入りの庭師なども呼び、かつて〝海賊料理〟と称した活魚料理店の経営者兼板前だった経験を生かして、自ら客に料理を振る舞いました。
宴の主役はいつも大好物の蟹でした。慣れた手つきで蟹を調理しては、客に蟹の身肉を存分に味わってもらい、蟹雑炊で締めるという何とも贅沢な時間を西村寿行自らが提供していたのです。

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私は、西村寿行という人物についてこう思います。
自分からは進んで徒党を組もうとはしない孤高の人。
でも、縁あって知り合い、気心の知れた人を大切にしたのが、西村寿行という人間だったと思います。

⇒現在、アマゾンのKindleでは電子書籍のキャンペーン実施中で、西村寿行作品が270円から読めます。

話が横道に逸れました。

⇒そして、1993年(平成5年)を迎えます。その6に続きます。

昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その6