「はる坊」の記事

1980年代の話

1984年【昭和59年】度大学入試 国公立大学文系・私立大学 難易度・偏差値一覧表

はる坊です。
今回は1984年(昭和59年)度の国公立大学・私立大学医学部の難易度表をご覧いただきます。

本来は偏差値のほうが、各大学の細かな難易度が解りやすいと思いますが、手元にある資料が河合塾のものであるため、基本的にランク0~ランク6までの難易度ランクとなっております。
偏差値については、○○~○○という数値とさせていただいております。

また、同ランクの私立大学も添えておりますので、当時のおおよその難易度はご推察いただけると思います。

それでは、ご覧ください。

1984年度入試 国公立大学文系 難易度一覧表

ランク0 偏差値67.5以上

東京大学文科Ⅰ類

京都大学法学部

京都大学文学部

※私立大学では、
早稲田大学政治経済学部
慶應義塾大学法学部が同ランク。

ランク1 偏差値65.0~67.4

東京大学文科Ⅱ類

東京大学文科Ⅲ類

京都大学経済学部

京都大学教育学部

一橋大学法学部

お茶の水女子大学文教育学部英語英文学科

※私立大学では、
慶應義塾大学文学部
早稲田大学法学部
早稲田大学商学部
早稲田大学第一文学部
上智大学外国語学部
が同ランク。

ランク2 偏差値62.5~64.9

一橋大学経済学部

一橋大学商学部

一橋大学社会学部

東京外国語大学外国語学部英米語学科

お茶の水女子大学文教育学部哲学科

お茶の水女子大学文教育学部史学科

お茶の水女子大学文教育学部国文科

お茶の水女子大学文教育学部仏語仏文科

お茶の水女子大学文教育学部中国語中国文学科

お茶の水女子大学文教育学部教育学科

大阪大学文学部

大阪大学人間科学部

大阪大学法学部

大阪大学経済学部経営学科

神戸大学法学部

※私立大学では、
慶應義塾大学経済学部
早稲田大学教育学部
国際基督教大学(ICU)教養学部
が同等ランク。

ランク3 偏差値60.0~62.4

東北大学法学部

東北大学文学部

東京外国語大学外国語学部フランス語学科

名古屋大学法学部

名古屋大学文学部

名古屋大学教育学部

大阪大学経済学部経済学科

大阪外国語大学外国語学科英語学科

神戸大学文学部

神戸大学経済学部

神戸大学経営学部

広島大学文学部英語英文学科

広島大学教育学部心理学専攻

九州大学法学部

九州大学文学部

九州大学教育学部

※私立大学では、
中央大学法学部
同志社大学法学部
青山学院大学経済学部
が同等ランク。

ランク4 偏差値57.5~59.9

北海道大学文科Ⅰ類

北海道大学文科Ⅲ類

東北大学経済学部

東北大学教育学部

筑波大学第一学群

東京外国語大学外国語学部ドイツ語学科

東京外国語大学外国語学部スペイン語学科

お茶の水女子大学分教育学部地理学科

横浜国立大学経営学部経営学科

横浜国立大学経営学部会計学科

東京都立大学人文学部

金沢大学文学部文学科

金沢大学文学部行動科学科

名古屋大学経済学部

大阪外国語大学外国語学部フランス語学科

大阪外国語大学外国語学部イスパニア語学科

奈良女子大学文学部文学科

大阪市立大学法学部

大阪市立大学文学部

広島大学文学部国史学科

広島大学文学部東洋史学科

広島大学文学部国語国文科

広島大学文学部西洋史学科

広島大学文学部言語学科

広島大学文学部西洋哲学科

広島大学文学部仏語仏文科

広島大学文学部地理学科

広島大学総合科学部(文系)

広島大学教育学部教育学科

九州大学経済学部

※私立大学では、
明治大学商学部
学習院大学経済学部
立命館大学経済学部
が同等ランク。

ランク5 偏差値55.0~57.4

北海道大学文科Ⅱ類

筑波大学第一学群(人文学類・社会学類・自然学類)

筑波大学第二学群(比較文化学類・人間学類)

筑波大学第三学群(国際関係学類)

千葉大学文学部文学科

千葉大学文学部行動科学科

横浜国立大学経済学部経済法学科

横浜国立大学経済学部経済学科

横浜国立大学国際経済学科

横浜国立大学経営学部管理科学科

東京都立大学法学部

金沢大学文学部史学科

金沢大学法学部

大阪外国語大学外国語学部ドイツ語学科

大阪外国語大学外国語学部ロシア語学科

大阪外国語大学外国語学部中国語学科

奈良女子大学文学部教育学科

京都府立大学文学部文化史学科

大阪市立大学経済学部

大阪市立大学商学部

岡山大学法学部

岡山大学文学部哲学科

岡山大学文学部史学科

岡山大学文学部文学科

広島大学法学部

広島大学経済学部

広島大学文学部中国哲学科

広島大学文学部倫理学科

広島大学文学部考古学科

広島大学文学部独語独文学科

広島大学文学部中国語中国文学科

広島大学文学部印度哲学科

熊本大学法学部

※私立大学では、
早稲田大学社会科学部
同志社大学商学部
法政大学社会学部
が同等ランク。

ランク6 偏差値52.5~54.9

埼玉大学教養学部

千葉大学文学部史学科

東京外国語大学外国語学部インドネシア語学科

東京外国語大学外国語学部アラビア語学科

東京都立大学経済学部

横浜市立大学文理学部(文科)

金沢大学経済学部

静岡大学人文学部法学科

静岡大学人文学部社会学科

静岡大学人文学部人文学科

愛知県立大学文学部英文学科

愛知県立大学外国語学部英米語学科

大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科

大阪外国語大学外国語学部イタリア語学科

大阪外国語大学外国語学部デンマーク語学科

大阪外国語大学外国語学部アラビア語学科

京都府立大学文学部国文中国文学科

京都府立大学文学部西洋文学科

大阪府立大学経済学部経済学科

大阪府立大学総合科学科(文科系)

神戸市立外国語大学外国語学部英米語学科

神戸市立外国語大学外国語学部イスパニア語学科

神戸市立外国語大学外国語学部中国語学科

岡山大学経済学部

※私立大学では、
明治学院大学経済学部
専修大学経済学部
國學院大学法学部
が同等ランク。

私立大学医学部

私立大学医学部のランクと偏差値の一覧になります。

ランク0 偏差値67.5以上

慶應義塾大学医学部

自治医科大学医学部

ランク1 偏差値65.0~67.4

該当校なし

ランク2 偏差値62.5~64.9

産業医科大学医学部

ランク3 偏差値60.0~62.4

東京慈恵会医科大学医学部

日本医科大学医学部

大阪医科大学医学部

ランク4 偏差値57.5~59.9

近畿大学医学部

関西医科大学医学部

ランク5 偏差値55.0~57.4

東京医科大学医学部

昭和大学医学部

日本大学医学部

久留米大学医学部

ランク6 偏差値52.5~54.9

岩手医科大学医学部

東邦大学医学部

兵庫医科大学医学部

福岡大学医学部

ランク7 偏差値50.0~52.4

聖マリアンナ医科大学医学部

名古屋保健衛生大学医学部[現・藤田医科大学医学部]

順天堂大学医学部

東京女子医科大学医学部

ランク8 偏差値47.5~49.9

北里大学医学部

東海大学医学部

埼玉医科大学医学部

獨協医科大学医学部

川崎医科大学医学部

私立大学法学部難易度・偏差値

ランク0 偏差値67.5以上

慶應義塾大学法学部

ランク1 偏差値65.0~67.4

早稲田大学法学部

上智大学法学部法律学科

ランク2 偏差値62.5~64.9

該当校・学部なし

ランク3 偏差値60.0~62.4

中央大学法学部法律学科

中央大学法学部政治学科

立教大学法学部

同志社大学法学部法律学科

明治大学政治経済学部政治学科

学習院大学法学部

青山学院大学国際政治経済学部

ランク4 偏差値57.5~59.9

関西学院大学法学部

関西大学法学部

立命館大学法学部

ランク5 偏差値55.0~57.4

早稲田大学社会科学部

法政大学法学部

成蹊大学法学部

成城大学法学部

学習院大学法学部

南山大学法学部

甲南大学法学部

西南学院大学法学部

ランク6 偏差値52.5~54.9

國學院大学法学部

明治学院大学法学部

専修大学法学部

東洋大学法学部

愛知大学法経学部法学科

ランク7 偏差値50.0~52.4

日本大学法学部法律学科

日本大学法学部新聞学科

日本大学法学部政経学科

日本大学法学部経営法学科

日本大学法学部管理行政学科

獨協大学法学部

駒澤大学法学部

京都産業大学法学部

龍谷大学法学部

福岡大学法学部

ランク8 偏差値47.5~49.9

東北学院大学法学部

創価大学法学部

神奈川大学法学部

名城大学法学部

近畿大学法学部

広島修道大学法学部

私立大学 経済学部・経営学部・商学部難易度・偏差値

ランク0 偏差値67.5以上

早稲田大学政治経済学部経済学部経済学科

ランク1 偏差値65.0~67.4

早稲田大学商学部

ランク2 偏差値62.5~64.9

慶應義塾大学経済学部
上智大学経済学部経済学科

上智大学経済学部経営学科

国際基督教大学教養学部

ランク3 偏差値60.0~62.4

青山学院大学国際政治経済学部国際経済学科

青山学院大学経済学部

関西学院大学経済学部

同志社大学経済学部

ランク4 偏差値57.5~59.9

慶應義塾大学商学部

明治大学商学部

明治大学政治経済学部経済学科

明治大学経営学部

青山学院大学経営学部

学習院大学経済学部

立教大学経済学部経済学科

立教大学経済学部経営学科

関西大学経済学部

関西大学商学部

立命館大学経済学部

関西学院大学商学部

ランク5 偏差値55.0~57.4

早稲田大学社会科学部

中央大学経済学部

同志社大学商学部

成蹊大学経済学部

成城大学経済学部

法政大学経済学部

法政大学経営学部

立命館大学経営学部

西南学院大学経済学部

ランク6 偏差値52.5~54.9

中央大学商学部

明治学院大学経済学部経済学科

明治学院大学経済学部商学科

専修大学経済学部

専修大学経営学部情報管理学科

國學院大学経済学部

南山大学経済学部

南山大学経営学部

愛知大学法経学部経済学科

甲南大学経済学部

西南学院大学商学部

ランク7 偏差値50.0~52.4

武蔵大学経済学部経済学科

武蔵大学経済学部経営学科

日本大学経済学部経済学科

専修大学経営学部経営学科

専修大学商学部商業学科

専修大学商学部会計学科

東洋大学経済学部

駒澤大学経済学部

愛知大学法経学部経営学科

神奈川大学経済学部経済学科

龍谷大学経済学部

龍谷大学経営学部

京都産業大学経済学部

京都産業大学経営学部

福岡大学経済学部

ランク8 偏差値47.5~49.9

日本大学経済学部産業経営学科

日本大学商学部経営学科

日本大学商学部商業学科

日本大学商学部会計学科

獨協大学経済学部

東洋大学経営学部

駒澤大学経営学部経営学科

神奈川大学経済学部貿易学科

東海大学政治経済学部経済学科

東京経済大学経営学部

東京経済大学経済学部

近畿大学商経学部経済学科

近畿大学商経学部経済学科

大阪経済大学経済学部

福岡大学商学部

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

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本の雑誌2021年3月号はる坊の雑記

『本の雑誌』2021年3月号 に当ブログの長者番付・作家部門のデータを提供させていただきました

『本の雑誌』2021年3月号 に長者番付・作家部門のデータを提供させていただきました。

はる坊です。

この度、『本の雑誌』2021年3月号 お馬ちゃかぽこ春風号 No.453にて、直木賞非公式WEBサイト『直木賞のすべて』(新しいタブが開きます)を運営されている川口則弘さんが寄稿された『長者番付作家編を読み解く』に、当ブログ内にある長者番付・作家部門のデータを提供させていただきました。

下記に長者番付・作家部門データの詳細ページへのリンクがありますので、ご興味のある方は、ぜひご覧ください

さて、同誌は1976年に発行を開始。当初は不定期誌でしたが、隔月誌を経て、1988年5月号より月刊誌となり現在に至っています。

2015年には、〝従来の書評誌にはなかったエンタテインメント中心の書評、ユニークな特集、個性的な執筆陣などで日本の出版文化に独自の存在感をアピール。本年で創刊四十周年を迎えた〟として、作家・歴史探偵の半藤一利氏・女優の吉永小百合氏・NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」「カラーでみる太平洋戦争」・車イスプロテニス選手の国枝慎吾氏とともに、第63回菊池寛賞を受賞しています。

『WEB本の雑誌』はこちらから。(新しいタブが開きます)

毎号、本好きにはたまらない興味惹かれる特集を組んでいますが、

今号の特集は「もしもベストセラーを出したら」です。

もちろん、内容は充実しており、

○1000万部超のベストセラー翻訳家・越前敏弥氏インタビュー

○『鬼滅の刃』勝手に皮算用! 原カントくん氏

○長者番付作家編を読み解く 川口則弘氏 

○角川文化振興財団 常務理事 宍戸健司氏インタビュー/「あれに似た匂い」で企画が通る!? 

○本屋の御輿の担ぎ方 元・紀伊國屋書店新宿本店 小出和代氏 

○読者アンケート/このベストセラーが好きだ! 

○わが社のベストセラー体験!

週刊金曜日/扶桑社/東京創元社/桐原書店/筑摩書房/晶文社/草思社/新潮社/双葉社/河出書房新社

○コラム/印刷会社M氏に聞くベストセラー体験! 

ベストセラーを出したら出版社と著者はどうなるのか?
本を出したい方なら誰もが夢みる、ベストセラーの世界に潜入しています。

1959年分~2004年分の長者番付・作家部門データはこちらから

今号の『本の雑誌』に提供させていただいた、長者番付・作家部門のデータは新聞発表とこちらが元になっております。

ある程度の年分で区切ってありますので、どうぞご覧ください。

長者番付・作家部門 1959年分~1973年分はこちらです。

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1959年分~1973年分)』

長者番付・作家部門 1974年分~1983年分はこちらです

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1974年分~1983年分)』

長者番付・作家部門 1984年~1988年分はこちらです

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1984年分~1988年分)』

長者番付・作家部門 1989年分~1995年分はこちらです

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1989年分~1995年分)』

長者番付・作家部門 1996年分~2004年分はこちらです

2005年以降も長者番付・作家部門が発表されていたら、どなたがランクインしていたかの推察や、作家の褒章・受章(紫綬褒章・文化功労者・文化勲章・日本芸術院会員)についても触れています。

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1996年分~2004年分)』

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

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2020年度(2020年4月入学)偏差値データ

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はる坊の雑記

「餃子の王将」創業から現在までのストーリー。創業者・初代社長 加藤朝雄の生涯とは? 大阪王将との関係は?

※この記事は2021年2月6日に作成投稿し、2022年10月29日に最終更新しました。

餃子の王将のはじまり そして、王将フードサービス創業者の加藤朝雄氏とは?

餃子の王将を運営する王将フードサービスは、加藤朝雄氏が、1967年に四条大宮に王将という中華料理店を営み始めたことにはじまります。

創業者の加藤朝雄氏は、1924年7月10日に福岡県飯塚市に生まれました。

生家は小さな鮮魚店でしたが、生活は貧しく、本人がのちのインタビューで、

「9歳から家計を助けるために働いた。新聞配達にはじまり、なんやかんやと。私は毎日自分に誓うとりましたわ。いまに見ておれ、絶対に大金持ちになってやる。父ちゃんと母ちゃんにうまいものを食わせて、楽をさせてやるんだと」

と語っているように、恵まれたものではありませんでした。

それどころか、貧乏であることで周囲に軽んじられたこともあったのでしょう。
幼少の頃から、〝大金持ちになってやる〟と自分自身に誓うに至ります。

加藤氏は地元の飯塚尋常小学校(現:飯塚市立飯塚小学校)を卒業後、本格的に働きはじめ、1941年に17歳で中国大陸・山西省臨汾に渡ります。
先に長兄が現地に渡って飲食店を経営していたのが理由でした。

ここで加藤氏は、初めて餃子に出会い、口にします。

そして、加藤氏は一旦は洋食を勉強するために帰国して、梅田新道のアサヒビールが運営するビアホールでコック見習いとなりますが、1944年に徴兵され、陸軍二等兵となった彼は、新京(長春)にあった関東軍憲兵学校で訓練を受け、憲兵教習隊員となり旧満州・大連で勤務中に終戦を迎えます。

その後、1947年に日本へ引き揚げた後は、料理店勤務、行商人、進駐軍食堂コック、薪炭商、小口金融業、ファッションホテル共同経営と様々な経歴を重ねます。

薪炭商をはじめた頃に1歳年下の梅子夫人(1925年2月21日生まれ)と知り合い結婚。
潔(1950年3月2日生まれ)さんと欣吾さん(1953年10月5日生まれ)というふたりの息子に恵まれます。

ですが、加藤氏が経済的に安定を迎えるのは、ファッションホテル共同経営をはじめる40歳の頃で、それまでは商売で辛酸を舐めて、まとまった借金を背負ったこともあったようです。

「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」

そして、1967年12月25日に、現在も餃子の王将第1号店である京都・四条大宮に王将を開店。
加藤氏は43歳になっていました。
最初は家族経営の10坪の店でした。

加藤氏自身が中華鍋を振るい、梅子さんが客の注文を聞き、会計を担当。
当時、平安高校生だった長男・潔さんが出前に走ります。

店は瞬く間に繁盛しました。
周囲の中華料理店がだいたい80円で出していた一人前の焼餃子を、王将では50円にして目玉商品としたのです。
そして、第2号店として出店した山科店では、「餃子10人前食べたら無料」と宣伝して、一気に客を呼び込みます。

四条大宮に店を構えてからわずか3年で、王将は6店舗に成長します。
1969年には、妻・梅子さんの16歳年下の弟・大東隆行氏を王将に迎え入れています。
大東氏が関西経理専門学校に進んだのは、加藤氏の助言があった為と、生前の同氏が語っています。

しかし、ここで加藤氏は大きな壁にぶつかります。
それは人材難でした。

「この世の中で使いにくいのは運転手と職人でっせ。腕があるさかい、定着しない。

給料に不満だったり、ちょっとでも気に入らんことがあると、プイとやめていってしまいまんのや」

この時代の苦労を、後年のインタビューで加藤氏は率直に振り返っています。
ここで加藤氏は考えに考え抜いた挙げ句、従業員を集めてこう訴えました。

「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」

すると、従業員のやる気に火が付きました。

店の売り上げが2倍、3倍と増えていったのです。



店舗を拡大後の1974年7月には、株式会社 王将チェーンとして会社組織に変更

加藤氏は代表取締役社長に就任します。

そして、専務取締役には若干24歳の長男・加藤潔氏が就任。その後、次男・欣吾氏も常務取締役に就任しています。

1984年10月まで、王将の役員は、加藤朝雄氏(社長)・加藤潔氏(専務)・加藤欣吾氏(常務)・加藤梅子氏(監査役)のみと創業者一族で固められていました。

営業本部長を務めておられた大東隆行前社長は、この1984年10月に取締役に、2ヶ月後の同年12月には常務取締役に就任されました。

大卒初任給日本一の企業 ただし、労働条件は過酷だった

加藤氏は店舗の拡大とともに、新卒採用を徹底しておこないました。

1975年の大卒者初任給は15万円。

大卒の平均初任給は89,300円の時代でした(年次統計より)

1979年には一気に初任給を20万円にアップさせました。

同じく大卒者初任給の平均は109,500円でした(同じく年次統計より)

しかも、毎月4,000円の昇給があり、基本給が30万円になれば、すぐに基本給40万円の店長に昇格、または、開業資金の1割を用意できる者には、フランチャイズ店を出せるようにしました。

王将のフランチャイズ第1号店は、1972年、京都市内の中立にオープンしています。

高収入と独立を目当てに、大学新卒採用も進みました。

新卒者は、近畿大学・九州産業大学・岡山商科大学・大阪商業大学・桃山学院大学・京都産業大学・立命館大学など、関西・九州圏を中心に集まります。

しかし、給料が高ければ高い分だけの労働が求められました。

1日の労働時間は14時間以上。

朝9時30分に出勤して、掃除や仕込みを分担して10時30分に開店。

そのまま、まとまった休憩を取ることなく、23時の閉店後に店の片付けを終えて店を後にするのが24時。

月に休みは1日もなし。

皆勤手当が月額25,000円支給されていましたが、1日でも休んでしまえば、この皆勤手当は0円になります。

また、各店舗の売上に順位を付けて、最高9万円から最低1,000円支給される〝順位賞〟も1日休めば半額支給になってしまう仕組みでした。

そして、店長はさらに大変でした。

店長の給与は50万円と高額でしたが、店の掃除のやり方や皿やどんぶりの洗い方が悪く、客に悪印象を与えた場合は、加藤氏自らが1万円~5万円の減給を決定しており、さらに、本部へ客からクレームが入ると、監督責任を問われて10万円の減給となりました。

「働けば働くほど収入は確かに増えるけど、辛いのも一般のサラリーマンの倍ですね」”(当時の店長談)

「店長は責任のすべてを、一身に被らなければならない」”(同じく当時の店長談)

それでも、高収入と独立制度に惹かれて、王将に勤めたいという志願者はあとを絶ちませんでした。

1980年7月には、商号を株式会社 餃子の王将チェーンに変更しています。

この当時、餃子の王将は関西に124店舗、名古屋に9店舗、東京に26店舗を運営しており、年間売上高は80億円 経常利益7億円となっていました。

ちなみに、この当時の餃子一人前の値段は140円。

結果として株式上場は1993年3月となりましたが、1980年当時から、加藤朝雄氏は餃子の王将の株式上場を考えていたようです。

この間、餃子の王将は成長を続け、年間売上高は100億円、200億円を突破。

関西圏から全国に店舗を展開していきました。

1990年12月には、商号を王将フードサービス変更。
年商300億円を狙えるところまで迫っていました。

ところが、株式上場まもない1993年6月10日に加藤氏は68歳で急逝します。
一説によると、晩年の朝雄氏は大腸がんを患い、人工肛門を装着していたという話があります。

アサヒビール時代に加藤氏よりスカウトされた副社長の望月邦彦氏が社長を継ぎますが、1994年には加藤氏の長男である加藤潔氏にバトンタッチ。その後、経営悪化により大東隆行氏が2000年に社長に就任する流れとなっています。

大東隆行氏は、社長就任後、ある夕刊紙のインタビューで、〝「年収は5,000万円」〟と発言されています。
また、同時期には大東氏の息子さんが、現在は撤退している和食事業〝いけすの王将〟三雲店の店長をされていました。

現在の王将フードサービス社長である渡邊直人氏の年間役員報酬(年収)は1億1,200万円。
内訳は、金銭報酬が8,300万円 非金銭報酬等が2,900万円となっています。(王将フードサービス有価証券報告書より)

餃子の王将を展開する 王将フードサービス店頭公開(JASDAQ上場)時の情報

餃子の王将を展開する王将フードサービスは、1993年3月16日に株式店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たしました。

上場時のデータは以下のとおりです。

株式会社 王将フードサービス

会社設立:1974年7月

店頭公開:1993年3月

資 本 金:19億100万円

総 資 産:394億5600万円

株主資本:88億8300万円(22.5% 748円)

借 入 金:198億1000万円

金融収支:▲6億7300万円

従業員数:748名(平均年齢 31.6歳)

平均賃金:378,158円

株主構成:

加藤欣吾 287万1000株(24.1%)

加藤潔  265万1000株(22.3%)

加藤朝雄 179万5000株(15.1%)

加藤梅子  93万2000株(7.8%)

従業員持株会 30万1000株(2.5%)

加藤ひろみ 22万0000株(1.8%)

大東隆行 20万3000株(1.7%)

加藤貴司 20万3000株(1.7%)

加藤英里 20万3000株(1.7%)

加藤真人 20万3000株(1.7%)

役員構成:

代表取締役社長:加藤朝雄

取締役副社長  :望月邦彦

専務取締役  :加藤潔

常務取締役  :加藤欣吾

常務取締役  :大東隆行

常務取締役  :鈴木和久

取締役    :土肥原啓二

取締役    :宮嶋廣正

取締役    :宮光正

取締役    :知久平芳美

取締役    :森田八寿広

取締役    :村上武敏

常勤監査役  :小坂晴一郎

監査     :野中智弘

上場当時の王将は、日銭が入る商売とはいえ、あまり財務状況が良いとはいえず、公募株式で得た資金は、借入金返済に充てるつもりだったようです。

王将フードサービス 業績推移

それでは、1989年~1992年までの餃子の王将の決算を見ていきましょう。
急成長期には終わりを告げていますが、しっかり順調に伸びています。

1989年3月期決算:

(こちらのみ変則決算)

売上高:221億1,700万円

営業利益:24億2,100万円

経常利益:12億7,700万円

最終利益:5億1,900万円

1990年3月期決算:

売上高:265億3,200万円

営業利益:29億2,000万円

経常利益:13億8,300万円

最終利益:5億1,900万円(1989年3月期と同額)

1991年3月期決算

売上高:276億7,770万円

営業利益:32億6,000万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:9億2,000万円

1992年3月期決算

売上高:288億9,000万円

営業利益:35億6,900万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:12億5,100万円

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)との関係は?

日本に〝王将〟は2つあります。

王将フードサービスが運営する「餃子の王将」

イートアンドホールディングス傘下の事業会社・大阪王将が運営する「大阪王将」です。

大阪王将の創業者・文野新造氏は加藤朝雄氏の親族といわれています。

最初、京都に店舗展開を進めていた餃子の王将からのれん分けをしてもらう形で、1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を開いたのが大阪王将の始まりです。

餃子の王将との違いは、まず経営スタイルです。

文野氏の中華料理店のメニューは、餃子とチャーハン、ラーメンの3品のみでしたが、餃子が一人前50円であったことから、安くてうまいものに目のない大阪人のハートを、いきなりガッチリと掴みます。

文野氏は店の売上が餃子中心であることに着目して、1969年3月から餃子専門店に業態を変更します。

餃子のみにメニューを絞ったことで、構えの大きい店舗展開が必要がなくなり、大阪王将は順調に店舗を増やしていきます。

そして、文野新造氏の個人事業から、1977年8月には、大阪王将食品株式会社に法人成りを果たします。

二代目社長となる文野直樹氏は、この頃から厨房に立って店の経営に携わっていました。

1982年には100店舗を達成しますが、一説によると、大阪王将の店舗を京都に出店したことにより、加藤朝雄氏との関係が悪化。商標権を巡って裁判沙汰にまでなってしまします。
結局、1985年に和解が成立しますが、1980年代前半に大阪証券取引所(新市場ベンチャー向け)2部への上場を目指していた加藤氏にとっては、この裁判が上場への大きなネックになったのかもしれません。

この当時、この大阪証券取引所2部に新しく作られた新市場で上場を果たして、のちに東証1部上場企業となった会社にコナミホールディングスがあります。

その後、餃子の王将と大阪王将は袂を分かち、お互いに独自の経営戦略で事業を発展させていきます。

大阪王将は、1990年代初めに商事部という部署を創設します。1993年9月には商事部から冷凍食品の餃子を生協向けに販売を開始。
自宅でも大阪王将の味が楽しめるようになりました。

その後、社名も大阪王将食品から大阪王将に変更。

そして、2002年1月にはイートアンド株式会社にまたも商号変更します。

堅実な店舗展開と冷凍食品の販売を進めながら、東京進出を果たし、2011年6月には大阪証券取引所JASDAQ市場に株式を上場。
2002年11月に東京証券取引所第2部上場を経て、2013年11月に東京証券取引所第1部に指定替えをおこないました。
晴れて、東証1部上場企業となった訳です。

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)歴代社長

ちなみに、『餃子の王将』を展開する王将フードサービスの創業者・社長が加藤朝雄氏で、
二代目社長がアサヒビールより招聘した望月邦彦氏。
三代目社長が加藤朝雄氏の長男・加藤潔氏。
四代目社長が大東隆行氏。
現在の五代目社長が渡邊直人氏です。

渡邊氏は、1955年8月19日生まれの67歳。1979年に桃山学院大学経済学部を卒業後、新卒入社。
1984年12月には早くも営業部次長となり、主に東京地区のエリアマネージャーや地区本部長を経て、
2004年に取締役、2008年に常務取締役となり、2013年12月に代表取締役社長に就任されています。

『大阪王将』を展開するイートアンドホールディングスの創業者が現在の代表取締役会長の文野直樹氏の父親である文野新造氏です。
創業メンバーである佐野文夫氏と本木健二氏とともに1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を出店したところ、
餃子の売れ行きがダントツであったことから、早々に、餃子専門店に業態を変えています。

株式会社イートアンドホールディングスの代表取締役会長CEO 文野直樹氏の経歴

イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOは文野直樹(ふみの なおき)氏です。
1959年11月29日生まれの62歳。
啓光学園高校を卒業後、大阪学院大学経営学部に進学するも1980年に中退。
実父・文野新造氏が経営する大阪王将食品に正式入社して、1984年7月に社長に就任したという経歴の持ち主です。

1996年8月に株式会社大阪王将に商号を変更。

2002年1月にイートアンド株式会社に商号を変更。

2011年6月に株式をJASDAQ市場に上場。

2012年11月に東京証券取引所第2部に上場。

2013年11月には、ついに東京証券取引所第1部上場を果たしています。

そして、2020年11月には、持株会社への移行とともに、株式会社イートアンドホールディングスとなり、大阪王将の運営会社は株式会社大阪王将となっています。

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COO 仲田浩康氏の経歴

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COOは仲田浩康(なかた ひろやす)氏です。
大阪王将の冷凍食品を扱う事業会社の株式会社イートアンドの代表取締役社長も兼任されています。

仲田氏は1964年4月26日生まれの57歳で、高校を卒業後、当時、流通業界で最大手だったダイエーに入社。
23歳で最年少主任となるなど活躍をしたのち、2000年8月に大阪王将に転職。

ご本人がインタビューで語られているところでは、ダイエーでは実績を残されていたので、大阪王将に移られた際には、給与・年収ともにダウンしたそうです。

その後、2001年7月に商事部部門長。2004年6月に取締役。2009年4月に取締役 常務執行役員 トレーディング本部長。
2012年4月 専務取締役。2017年6月にはついにイートアンドの代表取締役社長に就任。
持株会社移行後は、取締役社長COOに就任されています。

また、社会人となっても向学心を忘れず、関西学院大学大学院に進み修了されています。
よって、最終学歴は関西学院大学大学院修了となっています。

株式会社大阪王将の代表取締役社長 植月剛氏の経歴

大阪王将を運営する株式会社大阪王将の代表取締役社長は植月剛(うえつき たけし)氏です。
持株会社である株式会社イートアンドホールディングスの取締役も兼任されています。

植月氏は1972年7月13日生まれの49歳で、龍谷大学社会学部卒業後、1995年4月に大阪王将に新卒入社。

その後、2006年6月に取締役。2009年4月に取締役 執行役員 王将営業本部長。
大阪王将の海外事業部門も統括します。
2012年4月には、取締役 常務執行役員 王将営業本部長。
2019年4月に常務取締役 外食事業統括兼海外戦略本部長。

と順調にキャリアを積んで、2020年10月に大阪王将の代表取締役社長に就任されています。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊拝

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1980年代の話

【私大バブル期】1985年【昭和60年】度~1991年【平成3年】度入試で私大の偏差値はここまで上昇した!1980年代後半から急上昇した私大偏差値の推移

1980年代後半から急上昇した私大偏差値の推移

はる坊です。

今回は、急激に上昇していった1980年代後半からの私立大学難易度とその理由についてまとめました。

この時代をひとことで言えば、偏差値50だと、どこの大学に入るのも年々厳しくなっていくという時代でした。

現在、〝Fランク大学〟などといわれている大学も、それなりの難易度があり、倍率も10倍を超えていました。

中堅以下の成績の受験生は、経済的に可能であれば、北は北海道から、南は沖縄まで、特に新設大学は入りやすいと、飛行機と新幹線を駆使して、高額の交通費をかけて大学入試に飛び回っていました。

関東では、日東駒専(日本大学・東洋大学・駒沢大学・専修大学)も入学は難しく、大亜帝国(大東文化大学・亜細亜大学・帝京大学・国士舘大学)クラスもレベルが高い時代でした。

早稲田大学・慶應義塾大学・上智大学・青山学院大学・立教大学をひとくくりにした、〝JARWK〟という大学群はあまり聞いたことはありませんが、受験生の入試結果で、この5校の合格者が同レベルだった。
また、この中の1校に合格・入学できれば「私大入試は成功」と呼べた時代だった、と読み取れます。

まずは、偏差値の推移を見ていただきたいと思います。

※偏差値は旺文社発表のものです。
すべて経済学科です。

JARWK(早稲田大学・慶應義塾大学・上智大学・青山学院大学・立教大学)

早稲田大学政治経済学部経済学科
1985年 72.5
1986年 73.5
1987年 69.7
1988年 69.7
1989年 74.0
1990年 74.9
1991年 73.2

慶應義塾大学経済学部
1985年 70.2
1986年 71.0
1987年 69.4
1988年 68.8
1989年 73.2
1990年 74.2
1991年 72.1

上智大学経済学部経済学科
1985年 68.2
1986年 68.4
1987年 64.6
1988年 67.5
1989年 68.2
1990年 70.3
1991年 69.8

青山学院大学経済学部経済学科
1985年 61.3
1986年 62.4
1987年 59.9
1988年 60.9
1989年 65.6
1990年 66.1
1991年 66.7

立教大学経済学部経済学科
1985年 61.5
1986年 60.1
1987年 60.8
1988年 61.7
1989年 66.2
1990年 66.5
1991年 67.5

日東駒専(日本大学・東洋大学・駒澤大学・専修大学)

日本大学経済学部経済学科
1985年 53.8
1986年 55.4
1987年 53.7
1988年 55.6
1989年 61.0
1990年 61.8
1991年 61.5

東洋大学経済学部経済学科
1985年 52.4
1986年 51.5
1987年 51.9
1988年 53.0
1989年 57.1
1990年 57.8
1991年 60.0

駒澤大学経済学部経済学科
1985年 52.5
1986年 53.5
1987年 52.5
1988年 52.5
1989年 58.8
1990年 60.8
1991年 62.0

専修大学経済学部経済学科
1985年 54.9
1986年 54.7
1987年 53.9
1988年 54.6
1989年 59.2
1990年 60.2
1991年 60.9

東亜帝国(大東文化大学・亜細亜大学・帝京大学・国士舘大学)

大東文化大学経済学部経済学科
1985年 48.9
1986年 47.4
1987年 48.5
1988年 50.7
1989年 55.2
1990年 57.4
1991年 58.3

亜細亜大学経済学部経済学科
1985年 48.4
1986年 48.7
1987年 47.4
1988年 50.0
1989年 55.8
1990年 58.4
1991年 59.9

帝京大学経済学部経済学科
1985年 45.4
1986年 43.8
1987年 43.9
1988年 45.3
1989年 49.3
1990年 50.5
1991年 54.2

国士舘大学政経学部経済学科
1985年 39.1
1986年 41.2
1987年 42.4
1988年 44.6
1989年 49.3
1990年 52.2
1991年 53.8

関関同立(関西大学・関西学院大学・同志社大学・立命館大学)

関西大学経済学部経済学科
1985年 59.7
1986年 57.6
1987年 58.4
1988年 59.2
1989年 63.0
1990年 65.0
1991年 64.8

関西学院大学経済学部経済学科
1985年 64.7
1986年 61.4
1987年 61.8
1988年 62.2
1989年 67.8
1990年 68.4
1991年 69.1

同志社大学経済学部経済学科
1985年 65.9
1986年 63.9
1987年 62.3
1988年 63.2
1989年 67.9
1990年 69.5
1991年 70.7

立命館大学経済学部経済学科
1985年 58.6
1986年 58.1
1987年 56.8
1988年 58.9
1989年 63.5
1990年 65.8
1991年 65.7

産近甲龍(京都産業大学・近畿大学・甲南大学・龍谷大学

京都産業大学経済学部経済学科
1985年 54.2
1986年 54.9
1987年 54.0
1988年 55.5
1989年 59.3
1990年 61.9
1991年 60.9

近畿大学商経学部経済学科
1985年 51.6
1986年 51.5
1987年 51.6
1988年 52.8
1989年 56.1
1990年 58.8
1991年 58.5

甲南大学経済学部経済学科
1985年 56.9
1986年 54.3
1987年 55.0
1988年 56.9
1989年 61.4
1990年 60.7
1991年 61.6

龍谷大学経済学部経済学科
1985年 55.9
1986年 52.6
1987年 53.1
1988年 55.2
1989年 59.5
1990年 61.9
1991年 60.9

産院南大門(大阪産業大学・大阪学院大学・阪南大学・大阪学院大学・追手門学院大学)

大阪産業大学経済学部経済学科
1985年 –
1986年 43.9
1987年 46.2
1988年 47.1
1989年 51.7
1990年 55.2
1991年 53.7

大阪学院大学経済学部経済学科
1985年 47.2
1986年 49.0
1987年 43.7
1988年 46.2
1989年 51.6
1990年 54.6
1991年 51.4

阪南大学経済学部経済学科
1985年 40.9
1986年 44.1
1987年 44.0
1988年 47.6
1989年 50.7
1990年 54.5
1991年 54.1

桃山学院大学経済学部経済学科
1985年 45.6
1986年 47.2
1987年 47.5
1988年 48.3
1989年 53.6
1990年 55.6
1991年 56.8

追手門学院大学経済学部経済学科
1985年 46.9
1986年 47.3
1987年 46.6
1988年 50.0
1989年 53.2
1990年 56.4
1991年 54.6

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

1980年代の話

『ドラゴンクエスト』『弟切草』『かまいたちの夜』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!

『ドラゴンクエスト』『サウンドノベル』『不思議のダンジョン』シリーズを手掛けたチュンソフトの創生期はこんな感じだった!

はる坊です。

今回取り上げるのは、チュンソフトです。

現在では、スパイクと合併してスパイクチュンソフトに社名が変わっており、創業者の中村光一さんは取締役会長になっています。

そんなチュンソフトは、1984年4月9日に設立されました。

早速、創業当時のチュンソフトを見ていきましょう。

創業当時のチュンソフトとそのメンバーたち

前述したように、チュンソフトは株式会社として1984年4月9日に東京都調布市に設立されました。
京王線の調布駅から程近く、徒歩3~4分の好立地にあるマンションの2階2部屋を、事務所と開発室に充ててスタートしました。

代表取締役は中村光一さんです。
当時は、電気通信大学短期大学部の2年生でした。
チュンソフト設立当時の中村さんは、1964年8月15日生まれなので、まだ19歳でした。

しかし、すでに、丸亀高校時代に、エニックスのゲームコンテスト・第1回ホビープログラムコンテストで優秀賞に輝いた『ドアドア』で大ヒットを放っており、続く『ニュートロン』もヒット。
エニックスはゲームを当時主流だった〝買取〟ではなく〝印税〟をクリエイターに支払う方式をとっていました。
(印税は卸値の22%だったようです)
まだゲーム市場は小さかったものの、中村さんはゲームのヒットにより、大学1年生にして月額最高423万円。年間2000万円の印税を受け取りました。

18~19歳で年収2000万円となれば、舞い上がってしまいそうですが、中村さんは、トヨタ・ソアラの購入や飲み食いに使った部分もありましたが、税金を支払った残り半分は貯金をされていましたので、500万円の資本金のほとんどは、中村さんが出資できる余裕がありました。

創業当時の社員・そしてアルバイトは?

チュンソフト創業当時の社員は4名でした。

まずは、中西一彦さん
当時、電気通信大学短期大学部2年生で、のちの名物広報です。
中村さんとは大学で学籍番号がひとつ違いだったため、同じクラスとなり仲良くなったようです。

吉田幸司さん
吉田さんは、電気通信大学2年生でした。
『ドラゴンクエスト』『ドラゴンクエストⅡ』でプログラマーを務めた後、カプコンに入社されています。

安野隆志さん
安野さんは、早稲田大学政治経済学部1年生でした。
中村さんとは、丸亀高校の同級生でした。
『ドラゴンクエスト』~『ドラゴンクエストⅥ』まで、CGデザイナーを務め、SFC版『ドラゴンクエストⅢ』では、グラフィックデザインを務めています。
『ドラゴンクエストⅤ』で、チュンソフトは『ドラゴンクエスト』の開発から離脱しました。よって、安野さんは、グラフィックデザインを手掛けていた、ハートビートに移り、ドラクエのデザインを手掛けていましたが、のちに退社されたようです。

鈴木李佳さん
電気通信大学短期大学部2年生でした。
『ドラゴンクエスト』ではⅠ~Ⅳまで、アシスタントとしてスタッフロールに名を連ねています。
2005年にドワンゴがチュンソフトを子会社化した際に、チュンソフトの株主であることがあきらかになりました。

続いてはアルバイトで参加していた方々です。

成田東吾さん
当時、東京理科大学2年生でした。
成田さんは、このあとチュンソフトの大黒柱となります。
『ドラゴンクエストⅡ』~『ドラゴンクエストⅣ』までは、プログラマーを務め、『ドラゴンクエストⅤ』ではチーフプログラマとして参加しています。

福沢正さん
当時、電気通信大学2年生でした。
福沢さんは当初『ドラゴンクエスト』では、アシスタントとしての役回りでしたが、Ⅲ~Ⅴではサウンドプログラマとして活躍しています。

ゲーム業界の人材は流動的ですが、『ドラゴンクエスト』の人気が沸騰するにつれて、新しい人材が入ってきました。

代表的な存在は、内藤寛さんと山名学さんです。

内藤さんは高校時代よりアルバイトでプログラマーとして活躍していた方で、専門学校在学時にチュンソフトに入社。
ⅢとⅣでは、チーフプログラマを務めます。
1990年4月にはクライマックスを設立しますが、チュンソフトの辞め方が良くなかったようで、エニックスの社長を務めていた福嶋康博さんは、エニックス社員が内藤さんをデベロッパーに起用したいと申し出た折に、「ダメだ」と却下しています。
エニックスでも同じ事をされたのでは、たまらないという気持ちだったのではないでしょうか。

山名学さんは、1965年6月8日東京都出身。高校時代よりゲームソフト開発に触れて、日本大学在学中の1986年にチュンソフトに入社。Ⅲではプログラム、Ⅳではチーフプログラマ、そしてⅤ・Ⅵではディレクターを務めています。
1991年の大学卒業と同時に、チュンソフトでは取締役開発部長に就任していますので、社長の中村さんの信頼も厚かったのでしょう。
Ⅴを最後にチュンソフトがドラクエの開発から離れると、山名さんは有限会社ハートビートを設立して、代表取締役社長に就任。『ドラゴンクエストⅥ』と『ドラゴンクエストⅦ』の開発を手掛けます。
『ドラゴンクエストⅧ』の開発がレベルファイブに決定したことから、山名さんは2002年6月に新会社・ジニアス・ソノリティを設立して、任天堂のゲームソフトの開発に向かいました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

何かございましたらこちらまで。

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はる坊の雑記

ご長男の三浦陽一郎氏・ライトエアー社長の名畑博夫氏が共同代表取締役!さくらももこさんの事務所 さくらプロダクションの現在

さくらももこさんの事務所 さくらプロダクションの現在は?

はる坊です。

2018年8月15日に漫画家のさくらももこさんが亡くなられました。
亡くなられてから、もうすぐ2年半かと思うと、月日の経つのは早いものだと感じます。

漫画家としても有名なさくらさんですが、エッセイストとしてもすぐれた作品を残されています。

もともと、さくらさんご自身はエッセイストになりたかったけれど、その方法がよくわからなかったこと。
また、知名度のない人間のエッセイなど、書いたところで誰も手に取って読んでくれやしないだろうと思ったので、まず漫画家になったという話があります。

特に、1991年に刊行された『もものかんづめ』(累計235万部) 

1992年に刊行された『さるのこしかけ』(累計150万部) 
同じく1992年に刊行された『たいのおかしら』(累計130万部) 

の初期エッセイ集はミリオンセラーとなり、広く読まれました。

中学校の授業で使う副読本にも、エッセイの文章が使われていました。

さて、20代前半の若さで『ちびまる子ちゃん』を大ヒットさせたさくらさんは、1990年2月6日に、株式会社さくらプロダクションを設立しています。

会社設立の理由としては、著作物の版権管理をスムースにおこなうこと、アシスタントなど、周囲にいる方々への福利厚生面での配慮、そして税金対策が挙げられると考えます。

あれだけ大ヒットした『ちびまる子ちゃん』ですが、作者であるさくらももこさんは長者番付上位に登場されたことはありません。
(さくらさん個人で7000万円ほど納税されていた年もありましたが、そうなると当時の年収は1億5000万円以上となります)

これはさくらプロダクションで納税されていたことが大きいでしょう。

さくらさんが亡くなられてからも、日曜6時からはアニメ『https://amzn.to/2NYuIsV』が放映されており、企業のCMキャラクターにも起用されています。

また、『りぼん』にも新作が掲載されることがあり(原作:https://amzn.to/3f7ms5N 漫画:さくらプロダクション の扱いです)、キャラクターグッズも多く販売されています。

現在は息子さんがさくらプロダクションの社長

株式会社さくらプロダクションは、1990年2月6日に設立されています。

さくらももこさんは、前年の1989年に集英社『りぼん』の編集者だった宮永正隆さんと結婚され、宮永さんは1990年に集英社を退社、さくらプロダクションの社長に就任しました。

1965年5月8日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれたさくらさんは、地元の静岡県立清水西高等学校と静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科を卒業して、上京。

ぎょうせいにOLとして勤務しますが、すでに漫画家としてデビューを飾っており、勤務時間後は漫画を描くため睡眠時間が足りず、居眠りが目立つことを上司に注意された際に、「会社か漫画かどちらかを選べ」と言われたことから、「ちびまる子ちゃん」の連載も決定していたことから、「そりゃ、漫画にしますと」即答して2ヶ月で退社。(この覚悟の据わりっぷりはスゴイと思います)

宮永さんとの離婚後は、さくらさんご本人が、代表取締役社長となり、取締役には、父・ヒロシさんと母・スミエさんが名を連ねて、監査役にも親族の方が就任されていました。

さくらももこさん亡き後の2019年1月17日にさくらさんの長男・三浦陽一郎さんが取締役に就任され、同年3月29日に代表取締役社長に就任されました。
同時に、父・ヒロシさん 母・スミエさんは取締役を退任されています。

さくらさんの父・ヒロシさんは静岡県清水市(現・静岡市清水区)で八百屋を営まれていましたが、さくらさんが漫画で成功されるとともに、スミエさんとともに東京へ移住されています。

『ちびまる子ちゃん』の原作やアニメだと、ヒロシさんには、この仕事をしているという設定がないので、何の仕事をしているかわからないのですが、これはさくらさんご自身が八百屋だとバックに野菜や果物などを背景に描くことを嫌ったことが原因という説があります。

私は何となく、1990年にアニメを見始めた頃、「ヒロシさんは、製造業関係の技術屋さんかなあ…」と思っていました。
個人的には、ヒロシさんより友蔵さん(リアルでも漫画の世界でも)が、何の仕事をされていたのかが気になります。

累計発行部数3200万部以上となった『ちびまる子ちゃん』のメガヒットで、巨額の印税が入って、生活は左うちわでうらやましいと思われるかも知れませんが、著作権をしっかり管理して、作品のイメージを損なわないようにコントロールしていくのは大変なことです。

これからもさくらももこ作品が、広く愛されていきますように。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊の雑記

最強のファミリービジネスだった 長谷川町子『サザエさん』と姉妹社

2020年は『サザエさん』の原作者・長谷川町子さんの生誕100年

はる坊です。
2020年は『サザエさん』の原作者・長谷川町子さんの生誕100年にあたります。

長谷川町子さんは1920年に佐賀県生まれ、福岡県を経て東京都に移住。
『サザエさん』『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』という大ヒット漫画を生み出して、1992年に逝去されました。
没後贈呈ですが、国民栄誉賞を授与されています。

『サザエさんは』1969年からアニメ化され、「古き良き時代の日本の家庭が見られる」という肯定的な意見と「時代とズレている」という否定的な意見がありますが、ずっと日曜日18時30分から毎週放映されています。

長谷川家が営んでいた出版社・姉妹社

『サザエさん』の原作は四コマ漫画として、地方紙であるフクニチ新聞などを経て、休載を挟みながら25年に渡り、朝日新聞に連載。

『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』はサンデー毎日に連載されていました。

とすると、コミックスの発行は朝日新聞社と毎日新聞社となるのが通常の流れですが、長谷川町子作品はすべて、姉妹社という長谷川家が営んでいた出版社から発行されていました。

姉妹社が発行しているのは、長谷川町子作品だけ。
つまり、確実に、絶対に売れる作品だけを出版していました。

姉妹社は長谷川町子さんが1992年に亡くなられたことにより、1993年5月27日に廃業して、著作権は1985年9月3日に設立されていた財団法人 長谷川町子美術館に引き継がれました。
長谷川町子美術館は現在、一般財団法人となっています。

姉妹社が設立されたのは1946年12月のこと。
この姉妹社が株式会社だったのか有限会社だったのか、それとも個人事業だったのかはよくわかっていません。

工藤美代子『』では、“姉妹社が株式会社あるいは有限会社として登録された記録はない”となっています。

姉妹社設立の中心となったのは、町子さんの母・長谷川貞子さんと姉の長谷川毬子さんでした。
そして、妹の長谷川洋子さんが経理を担当します。

翌1947年1月1日付で、夕刊フクニチに連載されていた『サザエさん』をコミックスとして発行したのが、最初の出版事業でした。

最初は、本のサイズが書店に置きづらいB5サイズになっていたので、返本の洗礼も受けたようですが、3巻目が出る頃には順調に売れはじめ、1950年には〝サザエさんのまち〟として知られる世田谷区桜新町に640坪の敷地面積をもつ邸宅を新築しています。

長谷川町子さんの収入

気になるのが、長谷川町子さんの収入ですが、年収が判っているのは以下のとおりです。

1971年分 申告所得2453万円
1972年分 申告所得1682万円

この当時、公示されていたのは申告所得額です。
実際の収入-必要経費=申告所得となります。

実際の収入は申告所得の2倍といったところが多かったようです。

いまから50年前と、時代も時代ですが、
「えっ、これだけ?」と思われた方もおられるかもしれません。

そんなあなたは鋭いです。

次の申告所得額を見てどう思われますでしょうか?

1971年分 申告所得1億3273万円
1972年分 申告所得2億2629万円

現在から見ても、超高収入です。
これは、町子の姉・長谷川毬子さんの申告所得です。
1972年分では母の貞子さんも申告所得2238万円。
妹の洋子さんも申告所得1402万円です。

長谷川家の皆さんは、姉妹社に入って来る莫大な収入を、家族に分散していました。
姉の毬子さんの申告所得額が桁外れなのは、姉妹社の経営者だったこともありますが、町子さんの収入を大きなものにしてしまうと、『サザエさん』読者や視聴者から、

「一般家庭を描いているけど、作者本人はものすごいお金持ちじゃないか」

と思われるのが嫌だった、という点が考えられます。
そういった見方を避ける必要があったのではないかと思います。

姉妹社に必要なのは〝社員〟ではなく〝奉公人〟

1976年に現在、長谷川町子美術館の理事長兼館長を務めている川口淳二さんが、義母のツテで商社から姉妹社に転職しています。

このときの面接で、社長の毬子さんが川口さんに告げた言葉が印象的です。

「うちは〝社員〟ではなく〝奉公人〟でなければ務まらないけど、どんな仕事でもできる?」

奉公人とは、ずいぶんと時代がかった言葉ですが、長谷川家に忠誠を誓える人間しかいらないとする、毬子さんの強い意思が感じられます。

実際、川口さんは出版関係から掃除や庭の草むしり、運転手もこなす〝何でも屋〟を務めます。
川口さんによれば、この頃、姉妹社の社員は7名ほどだったとのことです。

雑誌『東京人』2020年5月号に、長谷川町子特集があります。
なかなか読み応えのある特集号ですので、興味のある方は一読されることをお勧めします。

長谷川町子美術館と遺産の行方

長谷川町子美術館の建設計画がスタートしたのは1980年です。
昭和30年代から収集をはじめた絵画や陶芸品、ガラス工芸品を社会還元することを目的に、財団法人による美術館運営を目指していましたが、実際に設立が認可されたのは1985年9月3日のことでした。

そして、同年11月3日に財団法人 長谷川美術館として、姉妹社が倉庫として使用していた土地に建てられた建物が美術館としてオープンします。

初代館長には長谷川町子さん自身が就任しています。

この財団法人には美術品の社会還元の他に、相続税対策も絡んでいました。
母・貞子さんは優秀な不動産投資家で、晩年は認知症を患われていましたが、その資産は10億円に達していました。
この資産を相続税にもっていかれることなく、処理をするには、自前の財団法人に寄付するのが一番の方法でした。

発足当時、財団が有していた資産は12億円でしたが、2008年の時点では、何と96億円となっています。
ですが、現在、この財団の役員に長谷川家の方はどなたもおられません。
長谷川町子さんが収集された美術品の社会還元と、その著作権の管理運営保持を役割としています。

1992年5月27日、長谷川町子さんは72歳でその生涯を終えます。
同年7月28日には、国民栄誉賞が没後贈呈されました。

長谷川町子さんの名前が、再び世間を賑わせるのは翌年のことです。
町子さんの遺産額が税務署に公示されたのです。
当時は一定額以上の遺産があった場合、遺産額と相続人を税務署が公示していました。

長谷川町子さんの遺産額、何と29億8800万円。

同じく前年に亡くなった松本清張でさえ、遺産額は17億5700万円でした。

そして、町子さんの遺産額が公示されてまもなく大事件が起こります。
多磨霊園から、町子さんの遺骨が盗まれたのです。

その後、犯人からの脅迫状が届き、結果として、遺骨は渋谷駅のコインロッカーで発見されて、遺族の元に戻りました。

犯人とのやりとりは、一切警察が明かしていません。
ですが、ある週刊誌では「2000万円の要求があった」と記されています。

日曜夜に放送され続けている『サザエさん』ですが、その裏側にはとてつもない歴史がありました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

参考文献:

長谷川町子『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』
長谷川洋子『サザエさんの東京物語』
工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』

はる坊の雑記

漫画家・遊人の〝推定4億円〟豪邸はスゴイ! デビュー以来、売れるまで画風を変えながら美少女漫画を生み出したのもスゴイ!

漫画家・遊人の〝推定4億円〟ロココ調豪邸

『ANGEL』『桜通信』で有名な漫画家・遊人がTwitterを始められました。
現在は港区六本木と湘南・藤沢を行き来して生活をされているようです。

かつて1990年代半ばに、遊人さんは湘南に〝推定4億円〟といわれるを新築。
新築にあたっては、ハウスメーカーがアメリカ現地の邸宅を調査して建てられた経緯があります。

この豪邸は『ダ・ヴインチ』とか『COMIC GON!』サブカル系の雑誌で特集されていて、『桜通信』の作中にもよく登場していました。
『トゥナイト』にも取り上げられた記憶があります・・・。

本名は確か國光さん。

TwitterのID、@kunimituyuji はご本名ですね。

漫画家・遊人のプロフィール

遊人さんはかなりの苦労人なんですよね。

1959年6月15日に山口県宇部市生まれ。
工業高校卒業後に上京して漫画家を目指して、1979年に芳文社にて短編読み切り『同姓契約』でデビューしたものの、その後は10年近く鳴かず飛ばず。
ちなみに國光という苗字(姓)は宇部市に多いです。

初期の大友克洋の影響を受けた、劇画調の作品も個人的には好きなのですが、ウケなかったんですねえ・・・

(あのままの画風だとかわぐちかいじっぽい絵になっていたのかも)と思うことがあります。

漫画家として売れなかった時代は、印刷屋さんやクリーニング店、漫画家アシスタントとして働きながら漫画を描き続けられていました。

20代半ばには、もう結婚されて娘さんもいらっしゃったはず。
その娘さんは、現在デザイナーとして活躍されておられるようです。

この頃は、相当、漫画家としての位置づけに悩まれただろうなと思います。

画風が変わり続ける漫画家・遊人

事実、遊人さんの絵は、「同一の漫画家か?」というくらいに変化しています。

デビュー当初は、大友克洋さんの影響を受けた劇画調の絵。

それから、江口寿史さん、江川達也さんの影響を受けた絵に変わり、ブレイクすることになる美少女の絵柄に変わります。

これは想像ですが、遊人さんは江口寿史さんの位置を一時期、狙っていたのではないかと思うことがあります。

週刊少年ジャンプに連載した『すすめ!!パイレーツ』と『ストップ!!ひばりくん!』の2作品によって、人気漫画家の地位を不動のものにして、さらに30代になるかならないかのうちに、原稿を落とすことがもはやステータスになっていた〝ビッグE〟江口寿史さんの絵は、今でも十二分に魅力的ですが、1980年代、大変魅力的でした。

江口さんの本業は漫画家ですが、ギャラのいいイラスト仕事が優先になり、江口さんは連載漫画の原稿を落とすことが、恒常的になります。

そこで、遊人さんが、

「江口寿史の絵は受ける。これだったら、江口寿史風の絵で漫画連載をすれば受けるんじゃないか?」

と思われても、決して不思議ではない。

実際、週刊モーニングに連載した末松正博さんの『右曲がりのダンディー』は、江口寿史のパクリそのものでしたが、全9巻で600万部以上を売り上げました。

まあ、末松さんは、江口寿史さん本人から

「〝リスペクトじゃなくて、ただのパクリ〟」と名指し批判をされたので、遊人さんは、江口寿史路線で売れなくてよかったと、一ファンとしては思っています。

個人的な想像に過ぎないのですが、ひょっとしたら江口寿史さんは、イラストレーターとしての実績で、紫綬褒章・旭日小授章の受章・叙勲があるのではと思っています。

紫綬褒章は60歳代まで、旭日小授章は70歳以降の受章・叙勲になりますね。

漫画家・遊人のブレイク

そして、遊人さんは1988年に週刊ヤングサンデーに連載を開始した『ANGEL』でブレイク。

同時期には。リイド社の『リイドコミック』で『校内写生』の連載を開始。
単巻で100万部を超えるヒット作となります。

『ANGEL』第1巻が100万部を突破して、一躍人気漫画家の仲間入りを果たしますが、1990年代初頭に起こった有害図書(コミック)問題の槍玉に挙がり、路線の変更を余儀なくされます。

一旦、休載となり、その後、連載再開されましたが、騒動を恐れてか、コミックスが発行されない状態が続き、最終的にリイド社の子会社だったシュベール出版より、成人向けコミックとしてコミックスが発売されました。

その後は、週刊ヤングサンデー連載の『Juliet』を経て『桜通信』の連載を開始。

『桜通信』も途中の10巻時点で200万部を突破。

『桜通信』連載後半頃までに、出版された遊人作品のコミックスの部数は累計で1500万部を突破します。

1996年に発行された『個人授業』も遊人さんのTwitterによると38万部が発行された模様です。

ヒロイン・飯嶋沙羅が作中でフェラーリF355に乗っていますが、これは遊人さんが実際に所有されていたクルマですね。

また、『遊人ブランド』のOVAやコミックも人気を得て、売れました。

漫画家・遊人の最盛期。収入は9年間で10億円

美少女コミックを描いて得た収入は、全盛期の9年間で10億円だったと、遊人さん本人がインタビューで語っています。

これは、遊人作品の魅力もさることながら、週刊ヤングサンデー(連載作品:『ANGEL』『Juliet』『桜通信』『Peach!』)や週刊ヤングジャンプ(連載作品:『学園天国』『幼な妻マープルの事件簿』)という一般・青年誌に連載を持ち、ただの美少女マンガ・美少女漫画家とは一線を画する位置にいたからだろうと思います。

漫画家が本当に儲かったのは、1980年代~1990年代まででしょう。
何といっても、コミックの売上が現在とは比べものになりませんので。

1990年代半ばには、ブックオフが出て来始めましたし、福満しげゆきさんが、作中で

「(漫画)バブルの頃だったら、もっと売れていた」

とぼやいていますが、実際、漫画家は一部を除いて、そんなに稼げる仕事ではなくなりましたもんね。

豪邸も建て、高級外車を乗り回せる立場になっても遊人さんはお金に淡泊でこだわりがない

遊人さんが吉祥寺から移り住んだ湘南・藤沢。

この土地に買い求めていた100坪あまりの土地に、新築の白亜の邸宅を構えたのは1995年。

アトランタに現存している邸宅をモデルにして、荘厳なドアがカナダ製なのを始め、ほとんどが輸入資材によってまかなわれました。

湘南の豪邸の他にも、ハワイにコンドミニアムを持っていたり、港区六本木にオフィスを構えていたりと確かに傍目にはバブリーでした。

愛車は赤のフェラーリF355と黄色のポルシェ911。

あとクルーザー(700万円)も。

2年ほど前でしょうか、5chまとめサイトで当時の記事が話題になり、

「こんな豪邸を建てても、維持できないだろ」

とか

「固定資産税ヤバイだろ」

という声がありましたが、この邸宅はいまでもしっかりと維持されておられます。

クルマも高級外車を複数所有。
イエローのポルシェ911(1000万円)と赤のフェラーリF355(1500万円)を所有して、のちにはランボルギーニ・ディアブロも所有されていたと記憶しています。

その後、世田谷区に転居されて、吉祥寺に移られ、六本木と湘南・藤沢にを行き来する生活になったわけです。

最近では、コンパクトでお洒落なイタリア車を所有されています。

さて、遊人さんはお金に淡泊な方です。

お金がドサッと入ったときに、アルマーニのスーツとか欲しいものを買ってみたけど、

感想は〝「こんなものか」〟で。

豪邸がクローズアップされたときには、

〝「ジーンズメイトとかで安くていいのを買っている」〟状態。

〝「たまに、タクシーに乗って帰宅すると、運転手さんに「お父さん、お金持ちなんだねえ」と言われる」〟と。

さてさて、美少女が登場する漫画で注目されてしまったので、作者はキモオタ・デブオタではないかと思われがちですが、遊人さんはなかなかのイケメンです。

遊人さん本人のお写真を拝見すると、漫画家というより、デザイナーや音楽関係者という印象を持ちました。

実際、ミュージシャン志望で、我流でありながらピアノ演奏はかなりの腕前で、自作の曲も弾かれるとインタビュー記事で読んだことがあります。

また、年齢よりかなりお若く見えますので、美少女を描く漫画家とご本人が、イコールにならないです。

それに、アウトドア派で原稿が上がると、家にいないという方のようで、30代半ばでメディアに露出されていた頃は、しっかり身体も鍛えておられるなという感じでした。

もっとも、

「睡眠時間は3~4時間。眠くなったら寝るので、不規則です」

という多忙な日々を乗り越える為にも、身体のコンディションを整えておられたのでしょう。

元々、「お金がないことが不幸ではない」という考え方の方ですから、

遊人さん本人曰く

「遊びで建てた」

この豪邸のインパクトはスゴイですが、その他は意外に質素に暮らしておられるような気がします。

Twitterに上がっている画像で普段の生活振りが垣間見えますが、

〝安くていいものが一番いいもの〟

という価値観をお持ちではないかなと感じます。

最近の漫画家・遊人

遊人さんは、2019年1月まで、東京都港区六本木3丁目のタワーマンション・THE ROPPONGI TOKYOの一室を購入して、仕事場として使われていたようですが、昨年末に売却されたときも、Twitter上で

「今年1月に売却。6年前に購入した金額の40パーセントUPで売れました。一等地は凄いなーと思いました。」〟と淡々としたコメント。

ここで週刊に連載された『ANGEL ~恋愛奉仕人・熱海康介~ SEASON 2』を描かれていたようですね。

遊人作品は、その画風からか電子書籍の売り上げが良好な漫画でもあります。

遊人作品は、その多くが電子書籍化されていますが、その売り上げが良好な漫画家さんです。

電子書籍・電子コミックを多く取り扱うアマゾンのKindleでも、遊人作品が販売中です。

いままで、遊人作品を読んだことのない方も、今回、このサイトで

「遊人! 懐かしいなあ」

と思われた方も、ちょっとのぞかれてみてはいかがでしょうか?

1990年代初頭、代表作『ANGEL』に引き続いてヤングサンデーに連載された『Juliet』

そして、1995年から同じくヤングサンデーに連載開始された『桜通信』。

『桜通信』は全20巻と遊人作品として最長です。

ヒロインの春日麗、慶應義塾大学文学部に通う令嬢・四葉美咲子、麗の友人・夏樹香美、そして秋本美寿紀と登場する女性は、全員が人間的に魅力的です。
また、主人公・因幡冬馬と秋本浩司の友情も泣けます。

しかし、なぜ大学が慶應義塾大学と上智大学、専修大学、そして、K大学(おそらく駒沢大学)しかでてこないのか、疑問ではありました。

Twitterに続いて、『遊人楽園』以来の公式サイト『遊漫人』

1990年代後半、遊人さんは『遊人楽園』という公式サイトをお持ちでした。
クオリティの高いサイトであったと記憶しています。

それから、直接、情報を発信されることはなかったのですが、Twitterに続いて公式サイトが開設されました。

毎週金曜日更新で、過去の漫画や新作ネームが見られるようです。

また、ブログあり
(いきなり水木しげる大先生登場です)。

グッズ販売あり。
(サイトオープン2日目を待たずして、いきなり1点を残して売り切れてしまいました。1話○○万円の生原稿まで!)

どんなサイトに育っていくか、これから楽しみにしています。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
他にも楽しんでいただける記事があるかと思いますので、どうぞゆっくりご覧ください。