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【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第4回

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第4回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回・第2回・第3回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第4回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

第3回よりかなり時間が空いてしまった事を、心よりお詫び申し上げます。

怒濤の時代

1986年に入ると、菊地秀行が活躍する舞台は更に増えていく。

朝日ソノラマで『吸血鬼ハンターD』『エイリアン』シリーズを書いていた菊地が、祥伝社ノンノベルから『魔界行』が上梓されたのが、1985年3月のことだが、それからの9ヶ月間で、祥伝社・光文社・講談社・徳間書店・角川書店からノベルス・文庫オリジナル作品を上梓していった。
この作品群は当然、書き下ろしであり、菊地の執筆量は激増していく。

1986年に入ると、菊地の執筆量は更に増える。
これまでの書き下ろしに加えて、雑誌連載を抱えるようになった為だ。

その雑誌連載も、〝短期集中連載〟がほとんどであり、菊地は月産900~1000枚という多産を強いられることになる。

最高時は一日で94枚『魔界都市〈新宿〉魔宮バビロン』執筆時。
ひと月では1050枚。
1ヶ月で350枚のノベルスを3冊書き下ろさなければならなかったとき。

上北沢のマンションで、都内のホテルでカンヅメになりながら、菊地は万年筆で原稿用紙を埋めていった。

自宅には担当編集者が待機して、24時間体制で菊地の原稿を待った。
編集者のなかには、読みにくい菊地の原稿を待機時間中に持ち込んだワープロで打ち直す者もいた。

この忙しい最中、夫人は編集者に夜食を振るまい、また菊地自身も気分転換も兼ねてインスタントラーメンなどを編集者に供した。

この時期、菊地のストレス解消法は、机に座ってエアガンで紙コップに向けて弾を撃つことくらいしかなかった。高級ホテルに入るのも気分転換にはなるが、そこで待っているのは仕事だ。

そして、食事にもこだわりがない。
「そこそこのものなら何でも美味いと感じる」とこの頃のインタビューで語り、ホテルのレストランや寿司店・和食の店に行くのも、“「ああいう店は接待で行くんだから。仕事関係とか友達とかおねえちゃんとか、おまえ(実弟・菊地成孔のこと)とか。そういうとき、相手にはビフテキでも何でも「はいどうぞ」だけど、俺はべつに何でもいいのよ」”(TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」出演時)
休みはひと月に1日あるかないか。

取材を兼ねたアメリカ・カナダ旅行の際にも、菊地は原稿を書き続け、ファックスで日本に送り続けた。
超の付くほどの過密スケジュール。
しかし、これをこなさないと原稿が間に合わなかった。

ここまでくると、表現したい世界があり書くことが好きではないと、根を上げてしまう。

結果として、1986年に上梓された菊地秀行作品は17冊に及んだ。
加えて週刊少年チャンピオンでは、原作:菊地秀行 作画:細馬信一の『魔界都市ハンター』(全17巻)の連載も開始され、86年中に4巻まで刊行されている。

この時代、日本のエンターテインメント小説は、ノベルスで出版されることが多かった。
70年代後半から始まったノベルスブームが、エンターテインメント小説の軸であり、ハードカバーで出版される小説は現在よりも少なかった。

菊地の主戦場はこのノベルスだったが、ノベルス中心の小説家は、ハードカバーを出す小説家より、ひとつ低く見られていたのも事実としてあった。

菊地がこの時代、一流の売れっ子作家だったことは間違いのない事実だが、ノベルスデビューから日の浅い作家でもあった。
出版社側の要望で、当初の打ち合わせで決まっていた内容が変わることも珍しくなかった。

あるとき、菊地はついに悲鳴を上げる。

菊地ファンならおなじみであり、またお楽しみである「あとがき」に「もうこれ以上、書き下ろしは不可能です」と宣言したのだ。

菊地の要望を真っ先に取り入れてくれたのは徳間書店だったが、「だったら雑誌連載ならいいでしょう」と雑誌連載の数が増えていくことにもなった。

書き下ろし型の菊地だが、週刊誌・月刊小説誌を合わせて最高7本の連載を持つことになる。
売れている作家を、そう簡単に出版社・編集者は手放さない。

特に『妖魔』シリーズがヒットしていた光文社では、
『週刊宝石』『小説宝石』『宝石(月刊)』に菊地の作品が連載される有様だった。

この地獄のような状況でも、菊地は編集者から口々に発せられる「菊地先生、菊地先生」の大合唱と、振り込まれる多額の印税、そして、ファンからの手紙に支えられて次々に作品を放っていった。

1987年には、書き下ろしと雑誌連載をまとめたもので、年間21冊の菊地秀行作品が刊行されている。
※原作コミックは別。

ちなみに、1987年5月に公示された高額納税者(長者番付)・作家部門で、菊地は初のベストテン入りを果たす。

納税額は1億458万円で作家部門8位。
前年度の納税額3981万円より大幅に増えている。
菊地は1996年5月に公示された1995年分まで、以後10年間この長者番付・作家部門で5位~9位のあいだを維持し続ける。

『魔界都市ブルース』秘話

『魔界都市ブルース』といえば菊地の代表作のひとつであり、現在までに累計で700万部を突破している大ベストセラーシリーズである。

秋せつらやメフィストを始めとするキャラクターは大きな人気を得て、メフィストは『魔界医師メフィスト』として、1988年から角川書店・カドカワノベルスでシリーズ化され、その後、講談社ノベルス、祥伝社ノン・ノベルと出版社を変えながら現在も続くシリーズとなっている。

さて、この『魔界都市ブルース』シリーズだが、ずっと祥伝社ノンノベルで刊行が続いている。
祥伝社の小説誌『小説NON』(現在は休載中か?)に連載・掲載されたものか書き下ろしである。

しかし、第1作の「人形使い」だけは、徳間書店が刊行していた『SFアドベンチャー』1985年2月号に掲載されている。
そして、第2作は掲載されることはなかった。

菊地自身は「打ち切られた」と思っており、当時『SFアドベンチャー』編集長からは「菊地さん、朝日ソノラマでやってるようなのを書いてくれないか」という話があったと後年述懐している。

これは推測だが、1985年に徳間書店は文庫レーベルとして「徳間アニメージュ文庫」を創刊している。

このレーベルから出版されヒットしたオリジナル作品には、首藤剛志『永遠のフィレーナ』シリーズや、現在に至るまで、『女神転生』から『真・女神転生』『女神異聞録ペルソナ』『デビルサマナー ソウルハッカーズ』『ペルソナ』シリーズなどに派生して、累計720万本を超える人気ゲームシリーズとなっている西谷史『女神転生 デジタル・デビル・ストーリー』シリーズがある。

菊地の作風から、編集長は菊地作品をこのアニメージュ文庫のラインナップに加えたかったのかもしれない。

結局、菊地はその後、祥伝社からの執筆依頼の折、『魔界都市ブルース』の話を持込み、第2作「さらば歌姫」が『マガジン・ノン』1985年10月号に掲載される。

この作品に対する評価は『マガジン・ノン』編集部では絶賛に近いものだった。

翌月号から「仮面の女」「L伯爵の舞踏会」「影盗人」と短編掲載が続き、1986年4月に『魔界都市ブルース1(妖花の章)』として上梓され、当初は〝伝奇バイオレンス〟小説が主体の菊地作品のなかでは、地味な部類として見られて反響は少なかったが、次作となる『魔王伝』3部作(1986年7月・1986年10月・1987年3月)の刊行で、同人誌界で高河ゆんがパロディ本を出し人気を得たことから、同人誌業界に『魔王伝』ブームが起こり、本家である『魔界都市ブルース』の人気も確立されていく。

現在まで、『魔界都市ブルース』は映像化もコミック化もされていない。
アニメ化・コミック化を望むファンもいれば、原作小説だけで充分だというファンもいるだろう。

いかにクオリティの高いアニメ・コミックでも、すべての原作ファンを納得させることはできない。
ファンひとりひとりの心のなかに、それぞれの秋せつらがおりメフィストがいるのだから、原作が人気を得ているものを派生させ、高い評価を得るのは非常に難しいものだと感じる。

しかし、『魔界都市ブルース』については、過去に高河ゆんによるコミック化の話は存在した。
残念なことに、当時、菊地作品のコミック化は秋田書店に限定されており、この話は立ち消えになったという。

そのかわり、秋田書店では、『魔界都市ハンター』(全17巻)に続き『魔界学園』(全21巻・作画:細馬信一)が週刊少年チャンピオンで長期連載され、あしべゆうほが『Candle』で1987年~1988年に掛けて『ダークサイドブルース』のコミックを連載している。

嵐のような季節のなかで そして夢枕獏とのスタンスの違い

1980年代後半は、〝伝奇バイオレンス小説〟の時代だった。
そして『菊地秀行の時代だった』と言っても過言ではないと思う。

「夢枕獏の時代じゃないの?」

との声もあるかもしれないので、ここで菊地秀行と夢枕獏のスタンスの違いについて、すこし私なりの意見を含めて説明をしておきたい。

伝奇バイオレンス小説家としてデビューが早かったのは夢枕獏だった。
続いて、登場したのが菊地秀行だ。
これは〝夢枕獏が火を付けて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟という当時の一文がすべてを語っていると思う。

夢枕獏は1984年に『魔獣狩り』(祥伝社 ノン・ノベル)『闇狩り師』(徳間書店 トクマ・ノベルス)で一気に人気を得た。
この作品はシリーズ化されベストセラーとなった。

このあと、夢枕は『獅子の門』(光文社)『大帝の剣』(角川書店)『餓狼伝』(双葉社)と伝奇バイオレンス小説を残しつつも、格闘小説の分野にも進出していく。

これには、夢枕獏がインタビューで語った次の言葉が、真だと感じる。

“「伝奇バイオレンスのブームが終わったら、いらない作家になるんじゃないかと思ったんです。そこで格闘小説を書きたいと編集者に言ったんです」”

また、1986年には「オール讀物」誌に『陰陽師』を書き始めている。
実際、この作品が注目されベストセラーとなるのは10年後のことだ。
それでも、夢枕獏は書き続けた。

“「ぼくの本は売れるものと売れないものの差が激しいんです」”

と別のインタビューで語り、

“「一番多い本で14万部。少ない本で2万部」”

と、新刊書に挟まれる夢枕獏事務所作成の小冊子「仰天・夢枕獏1号」に綴っている。
万部は初版部数を意味していると思う。

-ひとつのジャンルで飽きられる前に、自分の持ち味が出せる別のジャンルにも種を蒔き続ける。

これが、夢枕獏の基本的なスタンスではないかと思う。

1980年代、菊地秀行の月産原稿枚数が900~1000枚に及ぶ時期があったと前述した。
夢枕獏も毎月500枚~800枚の原稿を書いていた。
これだけの原稿を書けば、刊行される本も多い。
だが、伝奇バイオレンス小説がコンスタントに売れる菊地秀行と売れない本も出していた夢枕獏では収入も違っていた。

毎年、作家部門ベストテンに名を連ねた菊地と違い、夢枕は1985年分・1986年分でそれぞれ14位にランクインしてからは、姿を消している。
「税金を取られるくらいなら、ふんだんに経費を使ったほうがいい」と考えて、納税対象額を圧縮していたことも考えられるが、1989年には有限会社 夢枕獏事務所を設立しているのは、マネージメント体制を整える意味と節税のふたつの意味があったと推察する。

夢枕獏は、1990年代を迎える頃に、一度、月産200~300枚程度にペースを落としている。
これは、次の種を蒔くための準備期間が必要だったからだと思う。

そして、もうひとつは賞に関するスタンスだ。

菊地秀行は、現在に至るまで賞には縁がなく無冠を貫いている。

1986年に第17回星雲賞で『切り裂き街のジャック』(早川書房)が候補に挙がり、吉川英治文庫賞が創設されてからは、第2回から最新の第4回まで『吸血鬼ハンターD』(朝日新聞出版)が候補に挙がっているが、受賞には至っていない。
1990年代になり、ハードカバーで時代小説を刊行しているが、おそらく菊地自身は賞に対するこだわりや思いは、ないのではないかと推測する。

対して夢枕獏は、注目される作家となってまもない1984年に上梓した『悪夢喰らい』(角川書店)が、1985年3月に受賞作が発表された第6回吉川英治文学新人賞の候補に挙がっている。
この時の受賞作は船戸与一の『山猫の夏』(講談社)だった。
このときの選評を見てみると、圧倒的な強さで船戸の受賞が決まっている。

このあと、1990年に『上弦の月を喰べる獅子』(早川書房)で第10回日本SF大賞を受賞するが、1988年と1989年にそれぞれ『歓喜月の孔雀舞』(新潮社)『鮎師』(文藝春秋)で泉鏡花文学賞の候補になっている。
『鮎師』は夢枕が4、5年の歳月を掛けて書かれたもので、バイオレンス描写はなく小田原での釣りと自然の描写に腐心して書かれた作品だ。
文藝春秋から刊行された本であることも加味すれば、当時直木賞候補になってもおかしくはない作品とも思える。

多少は文学賞を意識した作品だったとも読める。

夢枕獏は菊地秀行より作家デビューは早い。
1977年26歳の時のことだ。
そして、1981年に専業作家となったが収入は少なく、食事は夫人がアルバイトに出ていたパン屋の残り物で凌いでいたという。
夢枕のエッセイによると、“「売れない時期には、原稿料がもらえなかったこともある」”という。
1984年に一躍ベストセラー作家となっても、これまでの悔しかった経験は夢枕のなかに生き続けていたと私は思う。
そして、ノベルス作家が一段下の作家として見られることも感じていただろう。

夢枕の眼に文学賞はその悔しさを晴らす、手段に映っても不思議はない。
結局、夢枕は山本周五郎賞・直木三十五賞の候補に挙げられることはなかった。
だが、1998年に『神々の山嶺』(集英社)で第10回柴田錬三郎賞を受賞する。
このとき、夢枕獏47歳。
デビューが早かったとはいえ、40代後半での柴田賞受賞は早いほうになる。

その後2011年・2012年には『大江戸釣客伝』で第39回泉鏡花文学賞・第5回舟橋聖一文学賞・第46回吉川英治文学賞をトリプル受賞し、2017年には第65回菊池寛賞。2018年には紫綬褒章を受章している。
2010年代に入ってからは、一気に賞(章)に恵まれている。

伝奇バイオレンスの先駆者

ひとつのジャンルが盛り上がりを見せると、その場所に、別ジャンルを書いていた作家が参入することがある。

〝夢枕獏が火を付けて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟このジャンルも例外ではなかった。

だが、このふたりの他に、現在まで伝奇バイオレンス小説を書き続けている作家がいるだろうか。
もしくは、伝奇バイオレンス作家として認知されている作家がいるだろうか。
鑑みたとき、この先達の偉大さに畏敬の念を感じずにはいられない。

1990年代に入ると、ノベルスは1980年代後半にデビューした綾辻行人・法月綸太郎・有栖川有栖らを嚆矢として〝新本格ムーブメント〟が起こり、京極夏彦・森博嗣が第二波として続いた。

もちろん、別のムーブメントが起こったからといって、1990年代に入り菊地秀行の人気がすぐ衰えたわけではない。
『魔界都市ブルース』シリーズの最高傑作『夜叉姫伝』(祥伝社 ノン・ノベル 全8巻)は、1989年から1992年に小説NONで連載後に刊行され、8巻にも及ぶ長いストーリーとなったが、「7巻よりラストの8巻のほうが、売れ行きがよかった」と菊地が述懐するほど、本人が誇れる作品であると同時に、読者にも大きな支持を受けた。

1993年に第1作が刊行された『ブルー・マン』シリーズ(講談社ノベルス)も人気を得た。

だが、菊地秀行作品の濃度と熱さは1980年代が頂点だった、と感じる。

注目を浴びる者の宿命ではあるが、当時、菊地秀行も夢枕獏もその作品が大勢の読者に受け入れられる一方で、的外れの非難を浴びることがあった。

「こういう小説が流行る風潮はよくない」

「新新興宗教にも影響を与えているのではないか」

これらの非難記事をよく読めば、菊地作品も夢枕作品にも目を通していないことがよくわかる。

菊地秀行と夢枕獏が与えた影響は、その後の小説・漫画・アニメ・ゲームだ。
もちろん、それらを創り出すクリエーターにも。
この影響は多大だ。

1980年代後半の嵐のような季節のなかで、菊地秀行はハイスピードで高クオリティの作品を発表し続けた。
クイズ番組に出演したり、三田佳子や黒木香と対談したりと、小説を執筆する以外の場に引っ張り出されもした。

菊地は1988年、以前に購入しておいた都下の土地に自宅を新築した。
白い外壁が印象的な邸宅だ。
人呼んで“「魔界御殿」”。

『バンパイアハンターD』をコミック化した鷹木骰子が菊地邸を訪れた際に、“「Dに出てきそうなおうち」”と巻末のコミックエッセイで表現しているが、まさにそのような印象を受ける。
インタビュー記事などで、自宅内の様子がわかるが、菊地テイストのグッズに囲まれている。

ちなみに、夢枕獏が小田原に建てた邸宅は、『魔獣狩り 淫楽編』の印税で購入したことから、“「淫楽御殿」”と呼ばれることになる。

久々の記事になったのにもかかわらず、最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

第5回がいつになるかわかりませんが、また書きます。
そのときは、どうかよろしくお願い申し上げます。

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回

伝奇バイオレンス・アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

第1回に引き続き、『魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第2回』を掲載します。

お気に召していただければ、本当にありがたいです。

売れないルポライター

ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。
初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。
電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

と頼むのだ。

現在の『○○Walker』や『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。

取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての仕事をこなしていった。

菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。
経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。

早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”
(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”
(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター (電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

菊地にはないネットワークと営業力があった。

しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。
原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。
早く大量の記事を短時間で書き上げる。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。
一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。
この具体的に書くということは、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。

翻訳家志望

だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。
1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。
第1期生は約250名。

同期に、漫画家では高橋留美子・たなか亜希夫・山本貴嗣。
漫画原作者では、狩撫麻礼・工藤かずや・早乙女正幸。
また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンエームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。
しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

この頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。
「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。
ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。
このグラビアは一部の好事家に注目された。

そして、菊地は『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。
この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

菊地は作家になることを目指していた。
しかし、“「自信がなかった」”、と語っている。

山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。
1974年に『神狩り』で作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。
打ちのめされるのが目に見えていたからだという。
結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

だがこれは、菊地に限ったことではない。
『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。
銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。

その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)
※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)
※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

そして、この頃、通っていた伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。
彼女にはふたりの兄がいた。長兄がニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年である出版社の記者だった。
菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。
この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。
船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。
1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。
菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

1982年9月30日『魔界都市〈新宿〉』で作家デビュー

フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。
朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」と声が掛かったのだ。
菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。
理由は、「長すぎる」。

その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。
自負はあったが、没にされたことで一時自信を失ったのではないだろうか。

しかし、映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。
この小説が出版されるまでには、紆余曲折もあった。

菊地の持ち味であるエロスとホラー要素が、「ソノラマ文庫の読者と合っていない」と編集者から指摘を受け、数箇所を削除しなければならなかった。
菊地には不愉快な出来事だっただろう。
しかし、菊地は指摘を受けた箇所を直して作品を完成させた。夫人の励ましもあったのだろう。原稿の清書では、半分を夫人がおこなった。

夫婦が一体となって完成させたといってもさしつかえない作品『魔界都市〈新宿〉』は1982年9月30日に発売となった。

菊地秀行33歳での作家デビュー。

初版は1万3000部。

9月25日生まれの菊地にとっては5日遅れではあったが、最高のバースデープレゼントだったのではないだろうか。

1ヶ月後には1万部の増刷が決まる。
当時のソノラマ文庫で増刷がかかっていたのは、『機動戦士ガンダム』のノベライズと高千穂遙の『クラッシャージョウ』くらいだった。

ソノラマ文庫編集部にとって、読者の反応は意外なことだったのではないか。

菊地は、ソノラマ文庫を戦場に次なる作品を放っていくことになる。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第3回に続きます。

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行

【連載】魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回

伝奇アクション・ファンタジー・SF小説家・菊地秀行について

はる坊です。

まずは、このふたつのエッセイの一部分を読んでいただきたいと思います。

まず、大学卒業を控えた時期のことを。

「会社員になれるとは思っていなかったが、かといって、所属せず生きていける自信もなかった。(中略)要するに誰と関わることもなく、最低の生活費を稼いでゴロゴロしていたかったのである。人生と戦うなんて真っ平であった(以下略)」
(週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』より)

大学卒業後から作家デビューまでの10年間を振り返って。

「いつまでも忘れられない事実がある。一〇〇万円貯まらなかった。一〇年近い、ルポライター時代を通してである。当時の貯金通帳はないが、記憶によれば、七十万円がリミットであった。一〇年で貯金が一〇〇万円に遠い。私のルポライター時代を、寒々と象徴する事実である」”
(小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』より)

このエッセイは、菊地秀行が作家となり、爆発的に人気を得た頃に書かれたものです。

1982年(昭和57年)10月に『魔界都市〈新宿〉』(朝日ソノラマ)で小説家としてデビューを果たし、『吸血鬼ハンター”D”』シリーズ 『トレジャー・ハンター(エイリアン)』シリーズで人気を得た菊地は、

1984年(昭和59年)2月に、祥伝社 ノン・ノベルからサイコダイバー・シリーズ『魔獣狩り 淫楽編』、続いて同年7月に『魔獣狩り 暗黒編』徳間書店 トクマ・ノベルスから『闇狩り師』、12月の『魔獣狩り 鬼哭編』を発表して、一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした夢枕獏に続いて、

1985年3月に祥伝社ノン・ノベルから刊行された『魔界行』

同年5月に光文社カッパノベルスから刊行された『妖魔シリーズ』の第1作『妖魔戦線』

同年7月に徳間書店 トクマ・ノベルスから刊行された『妖獣都市』で一躍、超人気作家の仲間入りを果たします。

『魔界行』『妖魔戦線』はすぐに10万部を突破、そして『妖獣都市』は一気に20万部を発行するヒット作になります。

1985年には15冊(原作担当のゲームブック『魔群の都市』・イラストノベル『夢幻境戦士エリア』を除く)。

1986年には17冊。

1987年には21冊(映画エッセイ集『魔界シネマ館』を含む)。

1988年には17冊。

1989年から2002年まで多い年には18冊、少ない年でも12冊を、ノベルスを中心に刊行し続け、2003年以降も旺盛な執筆量で作品を発表し続け、2017年2月に祥伝社 ノン・ノベルから上梓された『魔界都市ブルース 霧幻の章』で著作数は400冊となりました。

作家・菊地秀行の半生を振り返っていきます

2000年代中頃から、書店では菊地が作品発表の主戦場としてきた〝ノベルス〟の棚やスペースが縮小されていき(2019年現在においてノベルスは、少年ジャンプ人気作品のノベライズ版ジャンプ ジェイ ブックス(JUMP j BOOKS)が主流になりましたね)、それにつれて菊地秀行の名前を知らない、若い読書好きの方も増えているように感じます。

しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズの谷川流

『空の境界』の奈須きのこは、

菊地秀行からの影響を公言していますし、意識をするしないに関係なく、菊地が1980年代後半から現在までのライトノベルコミックに与えた影響は多大です。

前述したエッセイと作家生活に入ってからのコントラストには驚かされるばかりですが、今回は、伝奇バイオレンス・ホラー・ファンタジー小説家として大きな足跡を残している菊地秀行の半生を振り返ってみたいと思います。

下記から、文体が変わりますが、お気になさらないでください。

港町・銚子

菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。

徳太郎はこの店の三代目にあたり、当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。
母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。

幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。

当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。

そして、映画館。

店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。
毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。

父・徳太郎もホラー映画が好きであった。
身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。

小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱さからは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。

また、実家が客商売をしていたこともあって、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビが店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。
人々は、街頭テレビに熱狂した。
そんな時代からテレビで放送される番組に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。

菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。

1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。
ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。
実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。

ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、もし観ていたとしても、もっとのちのことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。

菊地の映画館通いは、銚子第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。
学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強もキチンとしていた。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。
菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。

上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。

当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。

また、漫画では横山光輝『伊賀の影丸』、そして小説では山田風太郎に熱中した。

実弟・菊地成孔の誕生

1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。
菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、〝恥かきっ子〟というわけではない。

現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。

しかし、何の因果か全員が死産であった。

父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。

また、父。徳太郎の女性問題もあった。
菊地も弟・成孔も母・知可子似である。

父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。
そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。

そんな現実も、少年の心に暗い影を落とし、漫画やSF小説、そして映画への耽溺を深くしたのではないだろうか。

このエピソードと語るにはあまりに酷な体験であったことは間違いない。

そして、『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感も、この時代に観た映画の影響とともにこの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。

1965年(昭和40年)銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』シオドア・スタージョン『人間以上』ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。

上京・大学進学

1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。

父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。
本人は、「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」と漏らしていた。

息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、「菊地先生」と呼ばれる息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。

徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。

1969年(昭和44年)4月 菊地は青山学院大学法学部に入学する。
法学部をいろいろ受けた結果、青学に滑り込んだ形だった。

入学後、菊地は推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。
菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。
だが、青山学院大学推理小説研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

意外なことだが、評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。

また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。

実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。
上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。
菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。

この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

「菊池氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊池氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊池氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊池氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”
(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。
菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、大学卒業後、3,4年のあいだ、この部屋で暮らしている。



菊地秀行 ルポライター時代

菊地は、就職をしなかった。
1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

ゼミは刑法だった。
入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。
ちなみに卒論は、“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」
というものだったようだ。

大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして、店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

菊地はその言葉に従って、喫茶学校に通ったが、途中で父と諍いが起こったことで、この学校に通うのを途中でやめてしまう。
以降、しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、「ルポライターをやってみないか?」と声が掛かった。

菊地は、ライターの事務所に所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場だった。
集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、講談社の仕事がメインだった。

『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。
のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。
梨本は、菊地に親しく声を掛けてくれたという。
当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を“「編集長だと思っちゃった」”と述懐している。

菊地は、この出会いに温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」

しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

第2回に続きます。

参考文献・一部引用

菊地秀行『幻妖魔宴』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』
(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』
(1996年4月15日発行 スコラ)