長者番付を振り返ってみましょうか(1986年分~1990年分 芸能人&文化人部門)
はる坊です。 1986年分~1990年分の高額納税者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』上位20位までにランクインした面々を紹介させていただきます。 1986年分芸能人・文化…
はる坊です。 1986年分~1990年分の高額納税者公示(長者番付)において、『俳優・タレント部門』『歌手部門』『その他・文化人部門』上位20位までにランクインした面々を紹介させていただきます。 1986年分芸能人・文化…
はる坊です。
今回は、フォーブス誌の2020年日本人長者番付で、2019年に引き続き第3位にランクインしているキーエンス創業者で同社名誉会長・滝崎武光氏に迫っていきたいと思います。
米フォーブス誌によると、滝崎氏の資産は滝崎武光氏個人、そして、妻の滝崎美弥子氏が代表取締役を務める滝崎氏の資産管理会社・株式会社ティ・ティが保有するキーエンス株で2兆1190億円に上ります。
2017年では1兆3880億円でしたから、3年間で50%以上も資産を増やしたことになります。
ちなみに、日本人長者番付のトップ2は、ユニクロを率いるファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長の順です。
滝崎氏を挟んでサントリーホールディングスの佐治信忠会長やユニチャームの高原豪久会長など、日本人の日常生活に欠かせないモノを手掛ける企業のトップが名を連ねています。
1位・・・柳井正(ファーストリテイリング 会長兼社長)資産額2兆3870億円 最終学歴:早稲田大学政治経済学部経済学科卒業
2位・・・孫正義(ソフトバンクグループ 会長兼社長)資産額2兆1940億円 最終学歴:カリフォルニア大学バークレー校経済学部卒業
3位・・・滝崎武光(キーエンス 名誉会長)資産額2兆1190億円 最終学歴:兵庫県立尼崎工業高校電子科卒業
4位・・・佐治信忠(サントリーホールディングス 会長)資産額1兆60億円 最終学歴:慶應義塾大学経済学部卒業 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)経営大学院修了
5位・・・高原豪久(ユニ・チャーム 会長)資産額6320億円 最終学歴:成城大学経済学部卒業
6位・・・三木谷浩史(楽天 会長兼社長)資産額5780億円 最終学歴:一橋大学経済学部卒業 ハーバード大学経営大学院修了
7位・・・重田康光(光通信 会長) 資産額5030億円 最終学歴:巣鴨高校卒業 日本大学経済学部中退
8位・・・毒島秀行(SANKYO 会長)資産額4390億円 最終学歴:慶應義塾大学商学部卒業
9位・・・似鳥昭雄(ニトリホールディングス 会長)資産額4280億円 最終学歴:北海学園大学経済学部卒業
10位・・森章(森トラスト 会長)資産額4170億円 最終学歴:慶應義塾大学経済学部卒業
1位 柳井 正(ファーストリテイリング 会長兼社長)資産額2兆7670億円
2位 孫 正義(ソフトバンクグループ 会長兼社長) 資産額2兆6670億円
3位 滝崎武光(キーエンス 名誉会長)資産額2兆0670億円
4位 佐治信忠(サントリーホールディングス 代表取締役会長)資産額1兆2000億円
5位 三木谷浩史(楽天 会長兼社長)資産額6670億円
6位 重田康光(光通信 会長)資産額6000億円
7位 高原豪久(ユニ・チャーム 社長)資産額5770億円
8位 森 章(森トラスト 会長)資産額5220億円
9位 永守重信(日本電産 会長)資産額5000億円
10位 毒島秀行(SANKYO 会長)資産額4940億円
1位・・・孫正義(ソフトバンクグループ 会長兼社長)資産額2兆2930億円
2位・・・柳井正(ファーストリテイリング 会長兼社長)資産額2兆0210億円
3位・・・佐治信忠(サントリーホールディングス 会長)資産額1兆8850億円
4位・・・滝崎武光(キーエンス 名誉会長)資産額1兆8430億円
5位・・・森章(森トラスト 会長)資産額6910億円
6位・・・永守重信(日本電産 会長)資産額5760億円
7位・・・三木谷浩史(楽天 会長兼社長)資産額5660億円
8位・・・高原慶一朗(ユニ・チャーム 取締役ファウンダー)資産額5450億円
9位・・・似鳥昭雄(ニトリホールディングス 会長)資産額5030億円
10位・・毒島秀行(SANKYO 会長)資産額4820億円
※8位にランクインされているユニ・チャーム創業者の高原慶一朗氏は2018年10月3日に逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
社業はご長男の高原豪久氏が立派に継いでおられます。
私事ですが、高原氏は初めてお目にかかった財界人でした。
その謙虚さと周りを包み込むようなオーラに圧倒されたのを、今でも昨日のことのように記憶しています。
2015年 第5位 資産額:1兆0472億円
2016年 第4位 資産額: 9379億円
2017年 第4位 資産額:1兆3880億円
2018年 第4位 資産額:1兆8430億円
2019年 第3位 資産額:2兆0670億円
2020年 第3位 資産額:2兆1190億円
すっかり、ファーストリテイリングの柳井正氏、ソフトバンクグループの孫正義
氏、サントリーホールディングスの佐治信忠
氏と並んで、日本人トップの資産を保有する人物として定着している感があります。
滝崎氏が、ここに挙げた3名の方と違うのは、滝崎武光氏は資産家・実業家の子息として生を受けたわけではなく、サラリーマン家庭に生まれ育ち、学歴も高卒であること。
約6年間のサラリーマン生活を経て共同経営の会社を設立するも、短期間で倒産させ、再度のチャレンジでも上手くいかず、20代後半までに結局2度の会社倒産を経験している人物であること。
3度目に正直となったキーエンスも、最初はリード電機という滝崎氏ただひとりの個人事業に過ぎない時点からスタートしているところでしょう。
まさに立志伝中の人物といえます。
この記事を読み進めていただくとお分かりいただけると思うのですが、滝崎氏ご本人は、この2兆円を超える資産のことは、必要以上に誇っているようには思えません。
もし、滝崎氏に現在の資産額について尋ねたら、
「資産といっても、私個人や家族、資産管理会社で保有している株式が大半です。
株価は必ずしも、会社の業績に比例して上下するものではなく不確かなもの。
ですから、あてにはなりません。
私は株や不動産売買で利益を出そうとする〝財テク〟はしてはいけないという考えです。
それよりも高付加価値の仕事をすること、会社の営業利益のほうが大切ですよ。
私は売上高には目を向けません。
いくら売上があっても低い利益率では、従業員を含めて企業に関わる人々がメリットを享受できませんから、意味がありません。
現在、キーエンスの営業利益率は売上高の54%強です。
この数字は社員ひとりひとりが、付加価値の高い良い仕事をしてくれていることの証だと思います。
私はそちらを誇りたいです」
きっと、そんな答えが返ってくるような気がします。
それでは、キーエンスと滝崎武光氏の足跡を追っていきましょう。
キーエンスは、創業者・滝崎武光氏が1972年3月に兵庫県伊丹市において、個人事業・リード電機として創業。
1974年5月に兵庫県尼崎市に移転するとともに法人化され、リード電機株式会社となります。
その後、FA(ファクトリーオートメーション)用センサーや計測器の開発・販売を手掛けて業績を伸ばし、1986年10月に商品ブランド名のキーエンス(KEYENCE)と商号の統一を図るために株式会社キーエンスに社名を変更。
ちなみにキーエンス(KEYENCE)とは、Key of Science-キー・オブ・サイエンス(科学の鍵)の略語です。
翌1987年10月には大阪証券取引所第2部に株式を上場。
株式上場準備に3年も4年もかかり、上場審査基準も厳しかった当時としては、かなりのスピードといえる会社設立から僅か13年で上場企業の仲間入りを果たします。
2年後の1989年12月には東京証券取引所2部にも重複上場。
1991年9月には、ついに東京証券取引所1部上場を果たします。
上場時から高収益企業・高株価企業として有名でしたが、まれに見る高収益体質を維持したまま、現在まで成長を続け、2018年3月期の連結決算では売上高5268億4700万円 営業利益2929億円を記録、営業利益率は何と55.6%です。
また、2018年11月2日に公表された第2四半期報告書では、売上高2939億0200万円(前年比17.3%増)営業利益1613億9800万円(前年比16.6%増)と更に成長を続けています。
さらに、2019年2月1日に公表された第3四半期報告書では、売上高4405億8400万円(前年比15.5%増)営業利益2403億4800万円(前年比14.1%増)と絶好調です。
そして、2019年4月24日に発表された2019年3月期連結決算では
売 上 高:5870億9500万円(前年比11.4%増)
営業利益:3178億6800万円(前年比8.5%増)
経常利益:3198億6000万円(前年比7.0%増)
となりました。
営業利益率は54.1%と、前年に比べて1.5%のダウンですが、営業利益自体は増加しています。
2019年6月に提出予定の有価証券報告書では、従業員の年収が2100万円台という数字になるのは間違いないでしょう。
※(2019年6月29日追記)
2019年6月17日に提出された有価証券報告書を見ますと、従業員の平均年収は2110万6666円になりました。
2020年度の数字がどうなるか、これから注視していきたいと思います。
あくまでも私の予想ですが、第2四半期までは売上高も営業利益も好調に推移すると思います。
しかし、その後はどうだろうか・・・と。
キーエンスは、従業員の年収が高い企業としても有名ですが、〝人件費は経費にあらず〟というキーエンス独自の思考から、2019年6月に提出された有価証券報告書では、従業員2388名(平均年齢35.8歳)の平均年収は2088万5270円となっています。ボーナスは(3月・6月・9月・12月)の年4回です。
2019年6月に提出された有価証券報告書では、従業員2253名(平均年齢35.9歳)の平均年収は2088万5270円となっていましたので、業績好調を受けて、従業員の平均年収もアップしています。
また、従業員の人数も単純計算で135名増加しています。
退職者もいるので、仔細は不明ですが、新卒・中途採用とも継続してかなりの人数を採っていることがわかります。
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キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた、
『新規事業の競争戦略 高い利益を獲得するスピード経営: キーエンスに新卒入社、ライバル会社に転職後独立したコンサルタントのノウハウ公開』
という書籍です。
キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。
立石氏のホームページによると、2016年9月の時点で30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
これには、著者の立石氏も戸惑われたようですが、この本にそれだけの価値があると認められていることも、また事実でないかと私は思っております。
そのような状況が長く続きましたが、2020年8月にアマゾンKindleにて、この本が第2刷として出版されました。
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キーエンスは、国内・海外(北米・欧州・南アフリカ・中国・アジア・中東・オセアニア)に営業拠点を張り巡らせていますが、本社・研究所は、大阪府大阪市東中島(JR新大阪駅の近くです)に構えています。
この社屋が建てられたのは1994年とかなり年月が経ってしまっているのですが、高さ111メートル・21階建てのビルは非常にスタイリッシュで、数々の賞にも輝き、現在でも古くささを感じさせません。
創業者の滝崎氏は2000年12月に、当時43歳だった生え抜きの佐々木道夫氏(明治大学政治経済学部卒業)に社長職を譲り、55歳で代表取締役会長に就任。
自身が会長に退いた理由を、
“「創業当時から自分がいなくても、会社が回るようにずっと考えてきました。会長に退いたのも、私が半年1年いなくてもこの会社は回るなと思ったからです」”と語っています。
(引用元:2003年10月27日号 日経ビジネス 特集 利益率40% 驚異の経営 キーエンスの秘密 編集長インタビュー 滝崎武光氏[キーエンス会長] 会社に思い出は不要)より。
2012年12月からは、佐々木道夫氏は取締役特別顧問となり、当時45歳だった山本晃則氏(立命館大学理工学部卒業)が代表取締役社長が就任。
滝崎氏は引き続き会長職に就かれていましたが、2017年12月からは取締役名誉会長を務めておられます。
2019年12月には、山本晃則氏は取締役特別顧問となり、1974年生まれの中田有氏(関西学院大学法学部卒業)が代表取締役社長に就任しています。
そして、
モンスター企業のキーエンスですが、意外にトップの収入はそれほど高くありません。
従業員の最高平均年収は約2100万円。
しかし、この時山本晃則社長の年間役員報酬は、前年度の1億3800万円よりアップしましたが、1億5600万円でした。
2019年に社長職を中田有氏にバトンタッチされ、取締役特別顧問となられた2020年3月期の有価証券報告書でみ1億5000万円。
他の役員に1億円プレーヤーはいません。
これには理由があり、創業者の滝崎武光氏が社長在任時代に、自身の報酬を低めに設定していた伝統が残っているからです。
滝崎氏自身“「サラリーマン社長と同等にしている」”とインタビューで発言しており、役員だからといって、億単位の役員報酬をもらっていなかったのです。
また2代目社長を10年間務められた佐々木道夫氏は、現在、東京エレクトロン、瑞光、SHIFTの社外取締役を務められる一方、
2017年には、日商岩井、キーエンス、THKで海外事業や新規事業で活躍された菅原伸昭氏らと共に、
ロボット制御を機械学習(AI)で行うソフトウェアを開発を目的とする株式会社イロハ(iROHA)を設立して、
取締役に就任されています。
また、滝崎氏は2018年6月に、まだまだ日本では浸透していない大学進学者向けの給付型奨学金を提供する一般財団法人キーエンス財団を設立され、代表理事も務められています。
2019年4月大学新入学生を対象とするものですが、募集人数は125名程度で月額8万円を在学中の4年間支給する
(4年間の合計支給金額は384万円になります)
という返済の必要がない奨学金ではかなり規模の大きなものです。
現在の日本では経済的な理由で奨学金を利用して大学や専門学校に進学される方が多くなっていることは事実です。
ただ、その奨学金の大半は貸与型であり、卒業後に社会に出てから返済の必要があります。
若くして高収入が得られる職に就き、奨学金の返済を滞ることなく支払える方もおられるでしょうが、不安定な立場や低収入から返済をすることができず延滞金が上乗せされ、最悪の場合、自己破産に追い込まれ、人生に大きな狂いが生じている方も多く存在していることも事実です。
そんななかで、前途のある学生に返済不要の給付金を提供する財団を立ち上げられたのは素晴らしいことだと思います。
実は、滝崎氏が奨学金に目を向けたのは今回が初めてではありません。
1990年にアジアから学びに来る理工系の留学生の為に、私財3億円で奨学基金を設立していました。
さて、キーエンス財団の事務局も大阪府大阪市東中島キーエンス本社ビル内にあります。
これは公私の区別を厳しくしている滝崎氏らしいと思うのですが、普通、成功を収めた事業家などが奨学財団や文化・スポーツ振興財団を設立した際には、自分の苗字を財団名の頭に付けていたり、理事や評議員に親族が名を連ねているケースがほとんどです。
また、自らの人脈をアピールする目的もあるのか、財界や学界、専門分野のなかでも著名な人物や肩書きが立派な人物の名前が並んでいることもあるのですが、キーエンス財団の場合はそういったものがないように感じられます。
理事や評議員のなかに、滝崎氏の親族は誰ひとり名前がありません。
奨学金を給付する有能な学生を選考する為には、どのような人物を置けば一番効果的で合理的かという滝崎氏の哲学が、この財団にも表れているような気がしてなりません。
日本人長者番付3位の大資産家である滝崎武光氏ですが、その人物像はほとんど知られていません。
第一に滝崎氏自身がメディアに露出しないからです。
よって、ウェブ上では〝前半生が謎〟であるとか、〝来歴や家族関係は一切不詳〟と書かれているページすら見受けられます。
滝崎氏自身、社長職を退いて、会長となって以降はたった一度しかマスコミのインタビューに応じていません。
名誉会長に就任して、後進に会社を託すような形となった現在では、メディア露出の可能性は更に低くなったと思います。
東証1部上場企業の創業者ですが、財界活動にも全く興味を示さない人物ですので、世界に通じる日本有数の大富豪として一部の人だけに名前を知られた状態で、このままミステリアスなイメージを保っていくのではないでしょうか。
それでも、まだ1980年代、1990年代には、多少ではありますがマスコミの取材やインタビューに応じていました。そこで語られたエピソードを中心に、滝崎武光氏に迫ってみたいと思います。
滝崎武光氏は1945年(昭和20年)6月10日兵庫県芦屋市で出生しています。
現在は大阪府豊中市に在住です。
芦屋市といえば、関西で一番富裕層が集い邸宅を構えているようなセレブなイメージがありますが、滝崎氏の父親はお金持ちでも経営者でもなく一介のサラリーマンでした。
しかし、真面目で働くことを美徳とする人物だったようで、モノ作り一筋の滝崎氏の人生にも大きな影響を与えている気がします。
その父親がメーカー勤務だったのかはあきらかにされていませんが、幼い頃、父親とともに住友金属工業(現在の新日鐵住金)和歌山製鉄所へ行ったときの思い出が滝崎氏には強く残っているようです。
当時、この製鉄所の中には、そこで働く人々を運ぶバスが運行されていました。
滝崎氏はこのときを振り返って、
“「理屈っぽい性格なので、これほど巨大な工場が何のためにあるのかを考え、自分の生活にも寄与しているんだと気が付いた」”
と語っています。
また、父親は機械の見本市にも武光少年を連れていったりもしています。
武光少年は小学校の卒業アルバムに『今度会うときにはテープレコーダーを作っているだろう』と寄せ書きしていたそうで、中学校時代には、友達から10円を集めて薬局でマグネシウムなどを購入して、実験をしていました。
モノづくりや電気いじり、科学実験
好きの少年時代を過ごしたようです。
滝崎氏が中学校卒業後に進学したのは、兵庫県立尼崎工業高等学校電気通信科(在学中に電子科に名称変更)でした。
(尼崎工業高校の後輩にはダウンタウンの松本人志氏(機械科卒業)がおられますが、島田紳助
氏と共演していたトーク番組『松本紳助』内で「賢いクラスがありましたねえ。電子科は賢かった」と発言していましたので、いくつかに分かれている科のなかでも、滝崎氏はレベルの高いクラスに在籍していたと思われます)
高校在学中、滝崎氏は自治会や生徒会の役員になります。
このとき、滝崎氏は先頭に立って市内5校で連合会を作っています。
ご本人は
“「(自身が通っていたのが女子生徒のいない工業高校だったので)女学生のいる学校に遊びに行きたかっただけかもしれません」”
と多少冗談めかしてはいますが、高校生にしてリーダーシップを取ることのできる人物だったことがわかります。
また、この経験からでしょうか
“「人を組織することに興味を覚えた」”
とのちに語っています。
時代はちょうど大学紛争の頃、自治会の役員をしていた滝崎氏は京都大学などで学生運動をしている人々と出会うことになります。
滝崎氏が、学生運動をしている年上の人々と知り合ったなかで、気が付いたのは、
思想というものは文学や芸術と同じで好き嫌いの世界
で、そういった客観的に測れないものは自分自身の性格上、相容れないものだということ。
そして、
経済というのは数字の世界だから客観性があり、企業の善し悪しも数字で対比すれば分かるもの
だということでした。
そして、滝崎氏は志を立てます。
自分は主観だけで判断するものには向いていない。
それなら、一流の事業家になろう。
それも、デザインや個人の趣味、趣向に左右される消費財ではなく、ユーザーの生産性を上げることに狙いを絞り込み、機能や性能に対して価格が安いか高いかで評価される生産財がいい。
1964年(昭和39年)3月滝崎氏は、兵庫県立尼崎工業高校電子科を卒業すると、実社会に足を踏み入れます。
実社会に足を踏み入れた滝崎氏は、エンジニアとなり24歳で独立を果たしますが・・・
その②に続きます⇒資産約2兆円 キーエンス創業者・滝崎武光氏はどこまでもミステリアス②
最後まで読んでくださってありがとうございました。
よろしければ、その②もお読みいただけるとありがたいです。
何かございましたら、こちらまでお願いいたします。
はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます)
メール:http://info*harubou-room.com (*を@にご変更いただきますようお願いいたします)
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【2018年11月に出版】キーエンスでの経験を生かしたサイト運営について普遍的で重要な事柄が凝縮された一冊。
キーエンスの社内ベンチャー・イプロスでウェブサイト作成・運営に携われた方の本です。
筆者の秋山典丈さんは、キーエンスの社内ベンチャー・イプロスで『製造業向けマッチングサイト』を企画された方です。
東京工業大学大学院理工学研究科情報工学専攻修士課程修了後、1995年にキーエンスに入社。
2000年にキーエンスの社内ベンチャーとしてスタートしたイプロス(株式会社 イプロスとして法人設立は2001年)の立ち上げに参画され、「徹底的に受け手の身になってサイトを作る」ことに向き合われた経験を生かして書かれた本です。
秋山さんは2003年に独立され、現在はシステム開発とサイトコンサルティング・商品企画コンサルティングに携わる株式会社 レクタスの代表取締役を務められています。
この本では、個人でも法人でも、また初心者から上級者までサイト作成・運営にとって重要なことが満載されています。
私も折に触れて読み返しています。
サイト作成に関する本は多く出版されていますが、ここまで普遍的で重要な事柄が凝縮されている本はめったにありません。
キーエンスに興味のない方でも、ご自分のブログやサイト、そしてSNSで見る人の心をガッチリ掴みたいと少しでも思われている方なら、ぜひお読みになってください。
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また、もう一冊だけ、現在紙の書籍で入手することは困難ですが、機会があればぜひ読んでいただきたい本があります。
キーエンスに1986年に新卒で入社され、アンリツを経て、現在は立石シゲオ中小企業診断士事務所代表として活躍されている、経営コンサルタント・立石茂生氏が2014年に書かれた、
『新規事業の競争戦略 高い利益を獲得するスピード経営: キーエンスに新卒入社、ライバル会社に転職後独立したコンサルタントのノウハウ公開』
という書籍です。
キーエンスで得られたノウハウを含めて、高収益企業を実現する経営指南書で示唆に富んだ良書中の良書なのですが、残念ながら古書でも手に入れるのは難しい状態です。
立石氏のホームページによると、2016年9月の時点で30,000円で古書がネット上で販売されていたようです。
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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
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はる坊です。
個人情報保護の為、2005年(平成17年)以降は、発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年(平成16)分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。
ここでは1996年(平成8年)から2004年(平成16年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。
毎年のベスト20までを列挙しています。
ソースは、当時の新聞報道・各年の『全国高額納税者名簿』(東京商工リサーチ刊)によるものです。
課税所得330万円以下・・・10%
課税所得330万円超~900万円以下・・・20%
課税所得900万円超~1800万円以下・・・30%
課税所得1800万円超~3000万円・・・40%
課税所得3000万円超・・・50%
課税所得200万円以下・・・5%
課税所得200万円超~700万円以下・・・10%
課税所得700万円超・・・15%
1位 内田康夫 1億4657万円
2位 西村京太郎 1億3351万円
3位 森村誠一 8222万円
4位 神坂一 8010万円
5位 津本陽 7450万円
6位 渡辺淳一 7327万円
7位 田中芳樹 6568万円
8位 椎名誠 6199万円
9位 石原慎太郎 6096万円
10位 斎藤栄 5933万円
11位 宮部みゆき 5291万円
12位 菊地秀行 5017万円
13位 五木寛之 4960万円
14位 群ようこ 4112万円
15位 童門冬二 3976万円
16位 宮本輝 3973万円
17位 荒巻義雄 3860万円
18位 赤川次郎 3805万円
19位 平岩弓枝 3795万円
20位 宮城谷昌光 3696万円
※赤川次郎首位陥落の理由
13年連続で長者番付・作家部門の1位を守り続けた赤川次郎氏が一気に18位まで順位を下げたのは、バブル期に購入した自宅兼仕事場の売却損で、作家活動による印税・原稿料・著作権収入と売却損が相殺された為。
収入は例年と同様の額があったとのこと。
※司馬遼太郎の遺産評価額
1997年2月、1996年2月に逝去した司馬遼太郎氏の遺産評価額が管内税務署にて公示されました。
遺産額は約26億4000万円。
約20億1000万円が銀行等金融機関への預貯金。
約3億9000万円が著作権。
約2億4000万円が自宅の土地建物でした。
1位 赤川次郎 2億7760万円
2位 渡辺淳一 2億2675万円
3位 西村京太郎 2億1257万円
4位 内田康夫 2億0827万円
5位 村上春樹 9244万円
6位 浅田次郎 9187万円
7位 森村誠一 8611万円
8位 林真理子 6980万円
9位 宮部みゆき 6942万円
10位 津本陽 6752万円
11位 神坂一 6336万円
12位 菊地秀行 5817万円
13位 群ようこ 5298万円
14位 斎藤栄 5147万円
15位 星野富弘 5103万円
16位 田中芳樹 4981万円
17位 平岩弓枝 4632万円
18位 髙村薫 4439万円
19位 椎名誠 4293万円
20位 大沢在昌 4247万円
落合信彦 3311万円
1位 西村京太郎 2億5196万円
2位 赤川次郎 1億9087万円
3位 鈴木光司 1億4207万円
4位 宮部みゆき 1億1679万円
5位 内田康夫 1億0594万円
6位 浅田次郎 1億0474万円
7位 五木寛之 7780万円
8位 森村誠一 7128万円
9位 宮城谷昌光 6738万円
10位 神坂一 5612万円
11位 菊地秀行 5495万円
12位 群ようこ 5357万円
13位 渡辺淳一 4998万円
14位 星野富弘 4962万円
15位 椎名誠 4927万円
16位 落合信彦 4687万円
17位 馳星周 4412万円
18位 斎藤栄 4399万円
19位 田中芳樹 4385万円
20位 筒井康隆 4220万円
北方謙三 3905万円
河合隼雄 3563万円
林真理子 3211万円
平岩弓枝 1974万円
1999年分以降は、所得税率が過去最低にダウン
1998年(平成10年)分までは、最高税率が所得税50%+住民税15%でしたが、
所得税率は最高で37%までダウンしました。
そのせいか、下記に挙げる作家の納税額も前年までに比べて減少していますが、2000年に入ると出版不況が深刻化して、作家の収入自体が減少していく様子が分かります。
1990年代初頭では、年収1億円あったとしてもランキングのベスト20に入れるかどうかでしたが、2000年分以降では、ベストテンに入れる年収になっています。
それほど、本が売れずに印税収入が細ってきている模様もうかがえます。
2006年分まで使用された所得税率表は下記のとおりです。
課税所得330万円以下・・・・・・・・・・・10%
課税所得330万円超~900万円・・・・20%
課税所得900万円超~1800万円・・・30%
課税所得1800万円超・・・・・・・・・・・・・37%
参考までに、2006年分まで使用された住民税税率表は下記のとおりです。
課税所得200万円以下・・・5%
課税所得200万円超~700万円以下・・・10%
課税所得700万円超・・・13%
1998年分までに比べると最高税率が大幅に下がりました。
1998年分まで、所得税50%+住民税15%=最高税率65%
1999年分から、所得税37%+住民税10%=最高税率47%
1位 西村京太郎 1億6519万円
2位 内田康夫 1億3929万円
3位 宮部みゆき 1億1492万円
4位 鈴木光司 7656万円
5位 浅田次郎 7315万円
6位 五木寛之 6320万円
7位 森村誠一 6199万円
8位 桐生操(堤幸子) 5640万円
9位 桐生操(上田加代子) 5610万円
10位 星野富弘 5246万円
11位 村上春樹 4664万円
12位 津本陽 4329万円
13位 赤瀬川源平 4015万円
14位 山崎豊子 3940万円
15位 東野圭吾 3803万円
16位 菊地秀行 3777万円
17位 天童荒太 3718万円
18位 桐野夏生 3355万円
19位 京極夏彦 3300万円
20位 神坂一 3282万円
21位以下で公示された作家
林真理子 2719万円
平岩弓枝 2174万円
馳星周 1412万円
1位 西村京太郎 1億5603万円
2位 赤川次郎 1億1108万円
3位 宮部みゆき 7873万円
4位 山崎豊子 7559万円
5位 内田康夫 7265万円
6位 浅田次郎 6758万円
7位 五木寛之 6468万円
8位 天童荒太 6465万円
9位 真保裕一 4153万円
10位 北方謙三 3956万円
11位 菊地秀行 3886万円
12位 夢枕獏 3591万円
13位 江國香織 3412万円
14位 阿川佐和子 3227万円
15位 落合信彦 3188万円
16位 津本陽 3176万円
17位 星野富弘 3108万円
18位 森村誠一 2887万円
19位 東野圭吾 2878万円
20位 林真理子 2746万円
21位以下で公示された作家
山口洋子 2624万円
森博嗣 2392万円
大沢在昌 2223万円
渡辺淳一 1932万円
柳美里 1891万円
宮尾登美子 1724万円
曽野綾子 1714万円
花村萬月 1332万円
平岩弓枝 1116万円
1位 西村京太郎 1億5946万円
2位 宮部みゆき 1億4566万円
3位 赤川次郎 8648万円
4位 内田康夫 7743万円
5位 浅田次郎 6633万円
6位 夢枕獏 5960万円
7位 江國香織 4331万円
8位
はる坊です。 個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。 ここでは1989年(平成元年)から1995年(平成7年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。 この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。 個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。 ここでは1989年(平成元年)から1995年(平成7年)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。 この時代、新刊の小説本が売れた最後の時期にあたっており、作家には印税収入を主として、まだ大きな収入がありました。 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 吉本ばなな 4位 村上春樹 5位 司馬遼太郎 6位 池波正太郎 7位 西村寿行 8位 菊地秀行 9位 渡辺淳一 10位 藤島泰輔 11位 藤川桂介 12位 笹沢左保 13位 遠藤周作 14位 山村美紗 15位 斎藤栄 16位 内田康夫 17位 森村誠一 18位 椎名誠 19位 胡桃沢耕史 20位 田中芳樹 ※10位にランクインしている藤島泰輔は、作家・評論家として活動。学習院時代の学友だった明仁天皇(上皇明仁)をモデルにした『孤獨の人 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 司馬遼太郎 4位 松本清張 5位 菊地秀行 6位 西村寿行 7位 田中芳樹 8位 内田康夫 9位 渡辺淳一 10位 斎藤栄 11位 門田泰明 12位 笹沢左保 13位 山村美紗 14位 遠藤周作 15位 椎名誠 16位 落合信彦 17位 森村誠一 18位 藤島泰輔 19位 村上春樹 20位 田辺聖子 ※20位圏外で登場した作家 北方謙三 森瑤子 大藪春彦 柳田邦男 草柳大蔵 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 内田康夫 4位 司馬遼太郎 5位 椎名誠 6位 山村美紗 7位 菊地秀行 8位 遠藤周作 9位 落合信彦 10位 笹沢左保 11位 渡辺淳一 12位 田中芳樹 13位 森村誠一 14位 斎藤栄 15位 山崎豊子 16位 橋本治 17位 門田泰明 18位 陳舜臣 19位 豊田行二 20位 松本清張 ※20位圏外で登場した作家 西村寿行 森瑤子 大藪春彦 北方謙三 夢枕獏 草柳大蔵 柳田邦男 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 内田康夫 4位 司馬遼太郎 5位 菊地秀行 6位 田中芳樹 7位 渡辺淳一 8位 山村美紗 9位 豊田行二 10位 辺見じゅん 11位 森村誠一 12位 斎藤栄 13位 椎名誠 14位 荒巻義雄 15位 落合信彦 16位 津本陽 17位 門田泰明 18位 笹沢左保 19位 平岩弓枝 20位 宮本輝 ※20位圏外では、 西村寿行 夢枕獏 佐木隆三が納税額1127万円で登場している。 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 内田康夫 4位 司馬遼太郎 5位 山村美紗 6位 津本陽 7位 森村誠一 8位 荒巻義雄 9位 菊地秀行 10位 斎藤栄 11位 宮尾登美子 12位 藤沢周平 13位 椎名誠 14位 童門冬二 15位 渡辺淳一 16位 志茂田景樹 17位 豊田行二 18位 遠藤周作 19位 平岩弓枝 20位 門田泰明 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 内田康夫 4位 司馬遼太郎 5位 森村誠一 6位 斎藤栄 7位 菊地秀行 8位 荒巻義雄 9位 椎名誠 10位 津本陽 11位 山村美紗 12位 藤沢周平 13位
はる坊です。 個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。 ここでは1984年(昭和59年)から1988年(昭和63)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。各年のベスト20までを列挙しています。 この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。 記事の一番下に、当時の所得税率・住民税率を記載しておりますので、ご興味のある方はご覧ください。 それでは長者番付・作家部門(1984年分~1988年分)です
1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 司馬遼太郎 4位 松本清張 5位 西村寿行 6位 渡辺淳一 7位 笹沢左保 8位 森村誠一 9位 平岩弓枝 10位 片岡義男 11位 池波正太郎 13位 田辺聖子 14位 筒井康隆 15位 斎藤栄 16位 夏樹静子 17位 遠藤周作 18位 柳田邦男 19位 大藪春彦 20位 和久俊三 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 池波正太郎 4位 松本清張 5位 西村寿行 6位 司馬遼太郎 8位 渡辺淳一 9位 森村誠一 10位 笹沢左保 11位 平岩弓枝 12位 斎藤栄 13位 田辺聖子 14位 夢枕獏 15位 遠藤周作 16位 大藪春彦 17位 和久俊三 18位 高城肇 19位 平井和正 20位 胡桃沢耕史 21位以下 菊地秀行 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 司馬遼太郎 4位 渡辺淳一 5位 西村寿行 6位 松本清張 7位 遠藤周作 8位 菊地秀行 ⇒菊地秀行の生誕から爆発的な人気を得る1980年代後半に至る軌跡をまとめた記事はこちらです。魔界都市〈新宿〉の創世主・ライトノベルの始祖 菊地秀行 第1回~第4回』(新しいタブが開きます) 10位 池波正太郎 11位 畑正憲 12位 田辺聖子 13位 笹沢左保 14位 夢枕獏 15位 胡桃沢耕史 16位 斎藤栄 17位 平岩弓枝 18位 井上ひさし 19位 山村美紗 20位 森村誠一 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 司馬遼太郎 4位 西村寿行 5位 池波正太郎 6位 菊地秀行 7位 田辺聖子 8位 渡辺淳一 9位 松本清張 11位 山村美紗 12位 遠藤周作 13位 胡桃沢耕史 14位 椎名誠 15位 安部譲二 16位 笹沢左保 17位 斎藤栄 18位 森村誠一 19位 新井素子 20位 平岩弓枝 1位 赤川次郎 2位 西村京太郎 3位 村上春樹 4位 池波正太郎 5位 西村寿行 6位 司馬遼太郎 7位 菊地秀行 8位 松本清張 9位 山村美紗 10位 斎藤栄 11位 平岩弓枝 12位 遠藤周作 13位 田辺聖子 14位 笹沢左保 15位 藤川桂介 16位 渡辺淳一 17位 藤島泰輔 18位 椎名誠 19位 門田泰明 20位 森村誠一 最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。 何かございましたら、こちらまでお願いいたします。 はる坊 @harubou_room Twitter(新しいタブが開きます) なんと15分類に分かれていました 課税所得50万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・10.5% 課税所得50万円超~120万円以下・・・・・・12% 課税所得120万円超~200万円以下・・・・・14% 課税所得200万円超~300万円以下・・・・・17% 課税所得300万円超~400万円以下・・・・・21% 課税所得400万円超~600万円以下・・・・・25% 課税所得600万円超~800万円以下・・・・・30% 課税所得800万円超~1000万円以下・・・・35% 課税所得1000万円超~1200万円以下・・・40% 課税所得1200万円超~1500万円以下・・・45% 課税所得1500万円超~2000万円以下・・・50% 課税所得2000万円超~3000万円以下・・・55% 課税所得3000万円超~5000万円以下・・・60% 課税所得5000万円超~8000万円以下・・・65% 課税所得2000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・70% まだ、12分類に分かれていました。 課税所得150万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・10.5% 課税所得150万円超~200万円以下・・・・・12% 課税所得200万円超~300万円以下・・・・・16% 課税所得300万円超~500万円以下・・・・・20% 課税所得500万円超~600万円以下・・・・・25% 課税所得600万円超~800万円以下・・・・・30% 課税所得800万円超~1000万円以下・・・・35% 課税所得600万円超~1000万円以下・・・・40% 課税所得1000万円超~2000万円以下・・・45% 課税所得600万円超~1000万円以下・・・・50% 課税所得1000万円超~2000万円以下・・・55% 課税所得2000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・60% やっと6分類まで減りました。 課税所得300万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・10% 課税所得300万円超~600万円以下・・・・・20% 課税所得600万円超~1000万円以下・・・・30% 課税所得1000万円超~2000万円以下・・・40% 課税所得2000万円超~5000万円以下・・・50% 課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・60% 1980年分から使用されていました。 課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・4% 課税所得30万円超~45万円以下・・・・・・・5% 課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・6% 課税所得70万円超~100万円以下・・・・・・7% 課税所得100万円超~130万円以下・・・・・8% 課税所得130万円超~150万円以下・・・・・9% 課税所得150万円超~230万円以下・・・・・11% 課税所得230万円超~370万円以下・・・・・12% 課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13% 課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14% 課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15% 課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16% 課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17% 課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・18% よって、1984年分の所得税と住民税の最高税率は驚異の88%でした。 同じく14分類に分かれていました 課税所得20万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4.5% 課税所得20万円超~45万円以下・・・・・・・・5% 課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・・6% 課税所得70万円超~95万円以下・・・・・・・・7% 課税所得95万円超~120万円以下・・・・・・・8% 課税所得120万円超~150万円以下・・・・・・9% 課税所得150万円超~220万円以下・・・・・11% 課税所得220万円超~370万円以下・・・・・12% 課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13% 課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14% 課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15% 課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16% 課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17% 課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18% 1987年分の所得税と住民税の最高税率は、所得税の最高税率が10%下がったため78%でした。 所得税と同じく7分類に簡略化されました 課税所得60万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5% 課税所得60万円超~130万円以下・・・・・・・7% 課税所得130万円超~260万円以下・・・・・10% 課税所得260万円超~460万円以下・・・・・12% 課税所得460万円超~950万円以下・・・・・14% 課税所得950万円超~1900万円以・・・・・・15% 課税所得1900万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・16% 1988年分の所得税と住民税の最高税率は、住民税の最高税率が2%下がったため76%でした。 本当の最後まで読んでくださって、心より御礼申し上げます。 復刊ドットコム 本好きの皆さんから寄せられた復刊リクエストを元に、2000年のサイトオープン以来、独自の復刊活動を20年にわたり続けて来られました。 これまでに55万人の会員様から55,000タイトル・85万票のリクエストが寄せられ、およそ6,000タイトルが復刊されています。 実際に復刊が実現した作品は、自社のサイトを通じて一般販売を行っています。 近年は、復刊本のみならず、 過去に復刊が実現した本の関連書籍(新刊を含む)の販売も積極的に展開して、 レア本・限定本・懐かしの本・コミックなどを満載したセレクトショップ的なネット書店を運営されています。 個人情報保護の為、2005年で発表が廃止された高額納税者(長者番付)の発表ですが、2004年分までは毎年5月に世間の注目を集めたものでした。 ここでは1974年(昭和49年)から1983年(昭和58)年分の長者番付・作家部門に名を連ねた方々を見ていきます。 ちなみに、1982年分(昭和57年)までは納税額ではなく申告所得額が発表されていました。 1981年分(昭和56年)までは、ベスト10。1982年分(昭和57年)以降はベスト20までを列挙しています。 1983年度(昭和58年)からは、発表されるのが申告所得額から所得税納税額に変更されています。 ソースは、当時の新聞報道によるものです。 申告所得額とは? この申告所得に下の所得税率が掛かるのです。 1974年分~1983年分の所得税率は、過去・現在に至るまで日本の所得税率の推移を見た上で、最も税率が厳しかった時代です。下の税率表をご覧になっていただくと、国税ではなく“酷税”と呼ばれていたことがご理解いただけるかと思います。 なんと19分類に分かれていました。 課税所得60万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・10% 参考までに、1974年分~1979年分の住民税の税率です。 1973年分から使用されていましたが、細かく13分類に分かれていました。 課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4% 1984年分まで使用されていました。さらに細かく14分類に分かれていました。 よって、1980年分~1983年分の所得税と住民税の最高税率は、驚異の88%でした。 1位 松本清張 3億0959万円 2位 司馬遼太郎 2億1463万円 3位 五木寛之 2億1226万円 4位 遠藤周作 1億8637万円 5位 石川達三 1億0710万円 6位 山岡荘八 1億0283万円 7位 宇能鴻一郎 9712万円 8位 北杜夫 8803万円 9位 川上宗薫 8488万円 10位 花登筺 8023万円 1位 松本清張 3億0027万円 2位 司馬遼太郎 2億3512万円 3位 五木寛之 2億2587万円 4位 石川達三 1億3422万円 5位 遠藤周作 1億3403万円 6位 横溝正史 1億1547万円 7位 有吉佐和子 1億1474万円 8位 山岡荘八 1億1259万円 9位 宇能鴻一郎 1億0656万円 10位 井上ひさし 9484万円 1位 松本清張 3億3461万円 2位 司馬遼太郎 3億3032万円 3位 横溝正史 3億3825万円 4位 五木寛之 1億4125万円 5位 森村誠一 1億1042万円 6位 城山三郎 1億0654万円 7位 宇能鴻一郎 1億0477万円 8位 石川達三 1億0237万円 9位 遠藤周作 9947万円 10位 高木彬光 8799万円 1位 森村誠一 6億2264万円 2位 横溝正史 4億0416万円 3位 松本清張 3億0545万円 4位 司馬遼太郎 2億1785万円 5位 新田次郎 1億7766万円 6位 五木寛之 1億5034万円 7位 城山三郎 1億2768万円 8位 梶原一騎 1億1504万円 9位 高木彬光 1億0564万円 10位 池波正太郎 1億0470万円 1位 森村誠一 4億3139万円 2位 松本清張 3億1856万円 3位 西村寿行 2億3487万円 4位 司馬遼太郎 1億8863万円 5位 五木寛之 1億7058万円 6位 横溝正史 1億6815万円 7位 新田次郎 1億5140万円 8位 有吉佐和子 1億4812万円 9位 池波正太郎 1億3878万円 10位 梶原一騎 1億3240万円 1位 西村寿行 2億6932万円 2位 大藪春彦 2億3452万円 3位 五木寛之 2億2013万円 4位 高木彬光 1億9313万円 5位 松本清張 1億7942万円 6位 司馬遼太郎 1億7085万円 7位 池波正太郎 1億5487万円 8位 横溝正史 1億5360万円 9位 花登筺 1億5085万円 10位 半村良 1億4451万円 1位 司馬遼太郎 3億0102万円 2位 五木寛之 2億7570万円 3位 西村寿行 2億5017万円 4位 松本清張 2億4733万円 5位 大藪春彦 2億0029万円 6位 井上靖 1億6792万円 7位 森村誠一 1億4427万円 8位 遠藤周作 1億2251万円 9位 池波正太郎 1億1704万円 10位 小松左京 1億1435万円 1位 司馬遼太郎 2億9193万円 2位 石坂洋次郎 2億1670万円 3位 西村寿行 1億8746万円 4位 松本清張 1億7853万円 5位 横溝正史 1億4582万円(発表時故人) 6位 五木寛之 1億4264万円 7位 森村誠一 1億4254万円 8位 勝目梓 1億4065万円 9位 笹沢左保 1億3832万円 10位 遠藤周作 1億2961万円 電子書籍ではなく、紙の本を手元に置いてじっくり読まれたい方は新品も中古本も揃っている通販がオススメです。 1位 松本清張 3億1489万円 2位 赤川次郎 2億7041万円 3位 西村寿行 2億5946万円 4位 司馬遼太郎 2億5731万円 5位 森村誠一 2億4362万円 6位 笹沢左保 1億7016万円 7位 渡辺淳一 1億4707万円 8位 大藪春彦 1億3650万円 9位 池波正太郎 1億1935万円 10位 井上ひさし 1億1861万円 11位 平岩弓枝 1億1492万円 12位 田辺聖子 1億0886万円 13位 西村京太郎 1億0720万円 14位 黒岩重吾 1億0158万円 15位 遠藤周作 1億0131万円 16位 筒井康隆 9823万円 17位 五木寛之 9800万円 18位 梅原猛 9545万円 19位 井上靖 9295万円 20位 平井和正 9003万円 1983年(昭和58年)分所得税納税額 2位 松本清張 1億9201万円 3位 司馬遼太郎 1億5360万円 4位 西村寿行 1億2588万円 5位 西村京太郎 1億0969万円 6位 笹沢左保 1億0733万円 7位 渡辺淳一 1億0117万円 8位 平岩弓枝 9085万円 9位 池波正太郎 8353万円 10位 筒井康隆 8005万円 11位 森村誠一 7933万円 12位 田辺聖子 6815万円 13位 勝目梓 6167万円 14位 大藪春彦 6043万円 15位 平井和正 5800万円 16位 中島梓(栗本薫) 5155万円 17位 和久俊三 5149万円 18位 斎藤栄 5100万円 19位 三浦綾子 5085万円 20位 遠藤周作 5026万円 はる坊です。 現在は渋谷区初台に〝ドラクエ御殿〟とも呼ばれる大豪邸を構える福嶋康博さんですが、最初からお金持ちだった訳ではありません。 自宅は、事業の成功とともにどんどん変わっていきました。 最初は、夫人とアパート住まい… はる坊です。 東京の高級住宅街といえばどこが思い浮かびますか? しかし、現在の富裕層は都心に住まうようになりました。 渋谷区なら高級住宅地として、まず、松濤や広尾が有名ですが、初台(はつだい)にも大豪邸があります。 そして、スクウェア・エニックスの創業者で名誉会長の福嶋康博さんの邸宅です。 地上2階・地下1階。 緑に囲まれて、道路から邸宅の様子はうかがい知ることができませんが、建物の外壁は総タイル張りの非常に立派なものです。 法人所有ではなく、福嶋康博さんご夫妻が個人名義で所有されている自宅ですが、土地や建物を合わせると、一体何十億円の価値があるでしょう。 それでは、福嶋さんが一代で、どうやってこの御殿を築き上げるまでになったのかをみていきましょう。 福嶋康博さんは1947年8月18日に北海道旭川市に生まれました。星座は獅子座・血液型はA型。 ところが、この映画館が火事になり全焼。焼け残った自宅を改装して父母は食堂を始めます。 また、近所で火事があったときは、焼け跡に落ちていた金属を拾い集めて、業者に売りました。これは子どもにしてはいいお金になったと福嶋さん自身が述懐しています。 しかし、プライベートでは両親が離婚して、父親は札幌に出て行き、母親が食堂を切り盛りします。 福嶋さんが“「母親が寝ているところを見たことがない」”くらい、母親は働き者だったようです。 中学校は、地元の旭川市立常盤中学校に進みますが、勉強はあまり得意ではなかったようです。しかし、高校受験に際して、このままでは希望校の合格が危ういことを担任の教師から教えられると、自分で勉強のスケジュール表を作り勉強に励みます。 元々、数学だけは得意だったこともあり、無事に北海道立旭川工業高等学校建築科へ進学します。 旭川工業高校入学後は、まずはラグビー部に入部しますが、3ヶ月で退部。 高校2年の夏ごろ、離れて暮らす札幌の父親から連絡がありました。「おまえ、大学へ行け」というものでした。福嶋さんは大学進学について、あまり考えていませんでしたが、反射的に「うん」と答えてしまいます。 しかしここで2つの壁にぶち当たります。まず、工業高校では大学受験に必要な科目の授業ではやっていませんでした。 そこで福嶋さんは堂々と授業中に大学受験の勉強を始めます。当然、教師からは睨まれて職員室に呼び出されます。 しかし、福嶋さんはひるみませんでした。“「ぼくの人生にとってここで、学校の勉強するのが大事か、受験勉強の方が大事か。大学受験です」”と教師に言い放って授業中に受験勉強を続けます。 もうひとつは、先に大学に進学していた兄の一博さんから「親父はたいして仕送りをしてくれないぞ」と聞かされたことです。福嶋さんは受験勉強の傍らで、下級生の家庭教師をしてお金を貯めながら、残りの高校生活を過ごします。 1966年(昭和41年)4月、福嶋さんは晴れて日本大学理工学部建築学科に合格して上京します。なぜ、建築学科だったかといえば、工業高校の建築科だったからで、あまり深く考えた結果ではありませんでした。 事実、福嶋さんの仕送りは、他の学生の3分の1ほどしかありませんでした。アパートの家賃が6000円なのに仕送りは5000円程度。 しかし、福嶋さんは足りない分を普通のアルバイトで稼ごうとは考えませんでした。 自分の得意な事で稼ごうとしたのです。 建築学科には図学という講義がありました。 そして、麻雀です。福嶋さんは中学時代から麻雀に親しんでいましたが、メキメキと腕を上げて、大学生にしてかなりの強者でした。 そうすると、友達が一緒に麻雀をやってくれないので、福嶋さんの勝ち点を半分にする特別ルールを条件に、友人たちと麻雀卓を囲み、また、雀荘に行っては、社会人や他の学生相手に稼ぎます。 麻雀で稼いだお金で問屋へ行き、コンドームを仕入れて団地へ販売に行ったり、ストッキングを仕入れて美容院に売り込みに行ったりもしました。 1970年前後は学生運動真っ盛り。 特に1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)にかけては、日大紛争と呼ばれる大規模な学生運動があり、日本大学は講義どころではなくなりました。卒業式も行われないほどの激しさでした。 大学も3年生になると、周囲は就職準備に入ります。しかし、福嶋さんには疑問がありました。 それは「建築学科を出たからといって、建築会社に入るしか道はないのか?」というものでした。 建築学科の友達に聞いて回ると、建築学科=建築会社・設計会社へ就職というのが当然じゃないかという答えでしたが、福嶋さんはその答えはすんなりと馴染めないものでした。 (構造計算を一生続けていって何になる。そのまま人生が終わるのは嫌だ。自分がやりたいことと何かが違う) おぼろげに(事業をやってみたい)と考えてはいましたが、アテがあるわけでもありませんでした。 結局、福嶋さんは就職をすることなく1970年(昭和45年)3月日本大学理工学部建築学科を卒業しました。 日本大学を卒業した福嶋さんは、当時付き合っていた女性の元に身を寄せます。 そこで、福嶋さんはある事業を思いつきます。 当時、よく行っていた中野ブロードウェイは、建物の造りが入り組んで複雑な上に小さな店がほとんどでわかりにくかったのです。 当時の中野ブロードウェイは地下1階から地上4階まで、日用雑貨・ファッション・レストラン等が雑然と並んでいる場所でした。 エスカレーターの作りも特殊で、2階を素通りして3階へ行くというもので、慣れないと方向感覚が狂って目的とはまったく違う場所に出てしまうことがしばしばでした。 初めて行ったときには、どこにどんな店があるか分からず、それからも買物へ行く度に、目的の店とは違うところへ出てしまったり。 福嶋さんは、いつも「何とかならないものかなあ」と考えていました。 あるとき、ぼんやりと、わかりやすい案内図があればいいんだよ、という考えが頭をよぎったとき、福嶋さんは「これは事業になる」と直感しました。 わかりやすい案内図を載せた中野ブロードウェイのPR雑誌を作ればいいじゃないか。 中野ブロードウェイを中心とした住宅地に5万部程度のPR誌を無料で毎月配布するという事業アイデアでした。 各店をPRする雑誌を発行すれば、儲かるんじゃないか! 現在でいうところのフリーペーパー事業です。 早速、福嶋さんは、一緒に暮らしていた彼女にブロードウェイのイラストマップを描いてもらい、 彼女に描いてもらったイラストマップと簡単な見本を持ってプレゼンテーションをしてみると、好意的な反応を示してきました。 福嶋さんが目を付けた通り、建物が入り組んでいること、小さな店が多くて、それぞれの店がわかりにくいことは、中野ブロードウェイの商店主たちも気にしていたことでした。 ただ、ネックがありました。 福嶋さんは、普通の会社が5万部程度のPR誌を出すとすれば、当時で月に350万円ぐらいかかると概算で考えていました。商店会会長たちのあいだでは、この金額が高いのではないかと二の足を踏むことになったのです。 しかし、福嶋さんはこの金額を譲るつもりはありませんでした。金額を巡って押し問答を繰り返していると、耳寄りな情報が入りました。 中野ブロードウェイを建てた不動産会社の社長が社会福祉活動に熱心だという話でした。 「(社会福祉とはちょっと違うかもしれないが、PR誌の発行は地域社会の為になる仕事だ)」と思った福嶋さんは、早速、その社長に事業プランをプレゼンしました。すると、この社長は毎月50万円出すことを約束してくれたのです。 ※これは私の推測ですが、この不動産会社社長は、東京コープ(東京コープ販売)社長の宮田慶三郎ではないかと思います。1906年1月7日生まれ。 その後、病気療養中に大脳生理学の研究により1960年に医学博士号を取得。学会発表の際にワシントンを訪れ、アメリカに比べて日本の建築物が貧弱であることを知って、不動産事業を始めた経験を持つ異色の経営者です。 中野ブロードウェイ開発を最後に不動産事業からは身を引き、教育者として朝日大学と明海大学を創立しました。明海大学に不動産学部があるのは、宮田慶三郎の意思でしょう。 宮田慶三郎が、福嶋さんと同じ北海道出身だったことや福嶋さんが日大理工学部建築学科出身だったことも、若き福嶋さんの提案を受け入れ援助する約束をする一因になったのではないかと思います。 月々50万円の協賛金を得られることになり、金銭的なネックも消え、PR誌作りについて商店会会長たちの納得を得た福嶋さんは、いよいよ発刊準備作業に入ります。 「おまえの会社は、登記されていないじゃないか!どういうことだ?社長は誰だ?」 福嶋さんは会社を登記することを知りませんでした。 結局、会社を登記していなかったことは、中野ブロードウェイ側からの信用の失墜を招き、この事業は開始直前になって頓挫してしまいました。 スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる② NURO光の販売代理店の中で、以下の内容で1位を獲得した代理店(楽天リサーチ調べ(2017年2月) が提案する、特典豊富な超高速インターネット回線サービスです。 ■キャッシュバック特典満足度 1位 <1>当社独自の最大8.3万円のキャッシュバックを含めた、最大12万円以上の申込特典 はる坊です。 ドラゴンクエストシリーズといえば、ゲームデザイン・シナリオを手掛ける堀井雄二さんや『ドラゴンボール』の作者でキャラクターデザイン担当の鳥山明さん、そして音楽を作り続けているすぎやまこういちさんに目が行きますが、忘れてはならない人がいます。 それは、ドラクエⅠからⅦまでプロデューサーを務めた千田幸信さんです。 お三方に比べるとメディアに露出する機会も極端に少なく知名度も低い気がしますが、彼がいなくてはドラゴンクエストは生まれることはなかったことは確かです。 また、堀井雄二さんは千田さんについての思い出として、「ドラクエが(発売)延期になったときに、小学生から「ドラクエは次、いつ出るんですか」と質問されたときに、千田さんが「はい、我が社といたしましては・・・」が答えて、えーっ、と思った」と語られています。 たしかに、真面目でビジネスマンというよりも職人気質の方だと思います。 千田幸信さんは現在、スクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役です。 事業会社であるスクウェア・エニックスの取締役も務めてこられましたが、こちらは2018年3月31日をもって、本多圭司取締役業務執行役員とともに退任されました。 替わりに取締役に就任されたのは、北瀬佳範・齊藤陽介・佐々木通博 ・西角浩一・橋本真司・三宅有・吉田直樹・渡邉一治の各氏です。 完全な代替わりで、その内にスクエニHDの取締役も退任されるのではないかという予感がして、何だか一時代が終わったというか、寂しい気がします。 千田幸信さんのプロフィールを簡単にご紹介します。 役員四季報に役員の趣味まで記載されていた頃、趣味は〝統計学の実践〟と書かれていました。 大学中退後は、1974年3月にCISに入社。1976年9月に丸山三郎氏が創業したソフトウエア興業に転職。 フリーのシステムエンジニア・プログラマーとして活動した後、1982年8月にエニックスの設立に参画して取締役に就任。 ちなみに、社名のエニックス(英表記:ENIX)の意味は、世界最初の汎用電子式コンピュータ〝ENIAC〟と不死鳥を表す英単語〝PHOENIX〟を合わせた造語です。 エニックスは設立後すぐに、賞金総額300万円の「エニックス 第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を企画・実施します。 最優秀賞者には賞金100万円。優秀賞者には賞金50万円。 当時、多くのゲームコンテストが実施されていましたが、賞金額は異例の金額でした。しかし、ゲームがなかなか集まりません。その理由は以下の3つです。 社長の福嶋さんも、この事態には喫茶店で頭を抱えたと振り返っています(福嶋康博 著『マイナスに賭ける!―「人並み志向」で勝機はつかめない』より) それでも、福嶋さん・千田さん・高野さんの3人は諦めませんでした。 千田さんは秋葉原へ行き、頭を下げて、マイコンショップにコンテストのポスターを店内に貼らせてもらいます。そして、全国の有力なマイコンクラブや他のコンテストの入賞者に「必ず、最優秀賞は出しますから」と応募を要請しました。 最後に、千田さんは週刊少年ジャンプ編集部を訪れます。少年ジャンプにコンテストの記事を載せて欲しいと頼む為でした。 ジャンプで最初のパソコンゲーム特集を担当することになっていた鳥嶋さんには、千田さんの訪問は渡りに船でした。依頼を承諾して、フリーライターで集英社のseventeen(セブンティーン)でも記事を書いていた堀井雄二さんに、取材をしてくれるよう依頼しました。 鳥嶋さんと堀井さんはすでにゲーム仲間でした。鳥嶋さんは、この取材は堀井さんが適任だと感じたのでしょう、堀井さんはすでにパソコン(マイコン)にハマっており、取材を承諾した上に、自分でも『ラブマッチテニス』というアクション性の高いテニスゲームをコンテストに応募しました。 四国・香川県の県立丸亀高校には、すでに全国のマイコン少年からその存在を認められている少年がいました。中村光一さんです。 中村さんは、新聞配達のバイトで貯めたお金でPC-8001を購入して、ゲーム製作&プログラミングに没頭します。 最終的には、コンテストに316本のゲームが集まりました。 審査の結果は、のちに『森田将棋』で名を馳せる森田和郎さんの『森田のバトルフィールド』が最優秀賞を受賞。 中村光一さんの『ドアドア』は惜しくも優秀賞でした。 そして、堀井雄二さんの『ラブマッチテニス』も入賞して、自ら表彰されながら取材もおこなうという、何だかよくわからない形になりました。 このコンテストで入賞を果たした13本のソフトが販売され、エニックスは事業開始初年度で3億5000万円の利益をはじき出します。 また、エニックスはゲームの作者に対して印税契約を結び、販売本数に応じて印税を支払う仕組みを取っていましたので、8万本が売れた『ドアドア』の中村光一さんは、大学生にして月額100万円の印税収入を得ることになります。 中村さんは、月に30万円ほどは使っていたようですが、半分はちゃんと貯金をして、1984年4月、19歳にして調布市布田に資本金500万円で株式会社チュンソフトを設立。代表取締役社長に就任して、本格的にゲームクリエーターの道を歩み始めます。 中村さんが製作した『ドアドア』は、その後、エニックスの任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)参入第一弾ソフトとして移植、こちらは20万本を売上げ、次いで発売された堀井雄二さんとチュンソフトを設立した中村さんが組んだ最初のゲーム『ポートピア連続殺人事件』は60万本を売り上げました。 堀井雄二さんと中村光一さんはRPGに興味を持っていました。当時、アメリカ市場では『ウルティマ』と『ウィザードリィ』が作られていましたが、ファミコン用ソフトとして製作するのは容量の関係で無理だと思われていました。 しかし、アドベンチャーゲーム(AVG)『ポートピア連続殺人事件』を製作した経験から、国産RPGの製作は可能だという考えを持っていました。 シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二 ここまでは決まっていました。 音楽をすぎやまこういちさんが担当することに、当初中村光一さんは反対でしたが、実際にふたりは会ってみるとすぎやまさんが大のゲーム好きであることが分かり意気投合します。 キャラクターデザイン 鳥山明 このふたりが加わり、ゲーム開発は、タイトなスケジュールであった為に苦労の連続でしたが、『ドラゴンクエスト』は完成。1986年5月27日に発売されます。 出足こそ鈍かったものの、じわじわと売上を伸ばし、1986年末には出荷本数100万本を突破し、最終的に150万本を売り上げることになりました。 堀井さん、中村さん率いるチュンソフトは『ドラゴンクエストⅠ』の完成間もなく、『ドラゴンクエストⅡ』の製作に入ります。 Ⅰでは果たせなかったパーティプレイを導入しますが、容量が増えたにもかかわらず実質半年間というタイトなスケジュールで、中村さんは疲労困憊しながらもゲームを完成させます。 ドラクエⅡの発売日は1987年1月26日。 中村さんは完成後も、特にロンダルキアのダンジョンなどゲームバランスには不満があったようです。 そして、休むことなくスタッフは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』の開発に着手します。 1988年2月10日に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ・・・』発売されると、瞬く間に300万本以上を売り上げて、最終的に380万本の売上記録を作ります。 マスコミも〝ドラクエ現象〟を報道して、販売店に行列を作るユーザーを取り上げました。 千田さんは1990年の『ドラゴンクエストⅣ』、1992年の『ドラゴンクエストⅤ』、1995年の『ドラゴンクエストⅥ』、そして1998年の『ドラゴンクエストⅦ』まで、プロデューサーを務め続けます。 この間、千田さんは1989年4月にエニックスの常務取締役 商品企画部長に昇任します。 2000年10月に社長が福嶋康博氏から本多圭司氏にバトンタッチをされるのを機に、取締役副会長に就任。 1991年2月にエニックスは株式の店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たします。 株式上場による創業者利益で福嶋康博さんは、杉並区浜田山に麻雀ルームとスポーツジムを備えた豪邸を建設し、川崎市多摩区の公団分譲の一戸建てから移り住みます。(現在は、渋谷区初台にこの豪邸を上回る邸宅を建ててお住まいです) また千田幸信さんも、福嶋康博氏、福嶋氏の資産管理会社・福嶋企画・福嶋社長の奥様・福嶋美知子さんに次いで、エニックス株の2.5%ほどを保有していた為、億単位の資産を得ることになり、自宅として世田谷区の億ションを購入。そして、中央競馬会の馬主登録資格をクリアします。 所有馬には「~カラノテガミ」「セタガヤ~」という特徴的な名を付けます。 ゲーム業界関係者の馬主として『ダービースタリオン』の作者でゲームクリエーターの薗部博之さんの「バランスオブゲーム」「アブソリュート」「スタープログラマー」とともに、名を馳せました。 2018年度にスクウェア・エニックスホールディングスが千田幸信さんに支払った役員報酬は金銭で1400万円。ストックオプションで500万円の合計1900万円です。 ・代表取締役社長:松田洋祐さん ・取締役:フィリップ ティモ ロジャースさん ・取締役:本多圭司さん この3名に比べると、千田さんの報酬が著しく低い気がしますが、現在は、相談役・アドバイザー的な立場でおられる為、この年収に設定されているのかもしれません。 現在、スクウェア・エニックスの役員・従業員の年収はいくらなのかしらべようとしても、スクウェア・エニックスホールディングスの従業員の年収しか公表されていないので不明です。 持株会社の従業員は毎年1300~1400万円の収入を得ているようですが、いかんせんその人数が15~20名程度であるため、数千人規模の従業員が勤務する事業会社であるスクウェア・エニックスの従業員の平均年収がこの金額と近いことはないでしょう。 旧エニックス時代、本社ビルの受付には受付嬢もおらず、また、交際費や経費全般が非常に厳しかったため、エニックスは別名〝ケチックス〟と呼ばれていました。 もちろん、それだけお金の出入りに厳しい会社だったために、創業以来、スクウェアと合併するまでまったくの無借金経営を貫き通して、無借金で自社ビルを構えて、財務健全性では株式を上場している全業界とあわせて見ても、トップクラスを維持できた訳で、一概に悪いとはいえません。ゲーム業界では一番堅実な企業というのが私のイメージでした。 さて、旧エニックスは給料が安かったという話があります。 ・エニックス ・スクウェア 確かに、スクウェアに比べるとエニックスの方が低いですね。 非常に古いデータですが、1993年のエニックスは初任給18万960円 30歳時点での平均給与が28万240円でした。 役員もそんなにもらっていなかったのではないかというのが私の想像です。 もっとも千田さんの場合は、エニックスが1991年に上場を果たしたときに数十億円の株式資産を得ていますので、その後の収入に関しては、淡泊なのかもしれません。 千田幸信さんがドラゴンクエストシリーズに登場するモンスター〝くさったしたい〟のモデルという噂があります。 この話の発信源は、劇作家・演出家の鴻上尚史さんが自身がパーソナリティを務める「オールナイトニッポン」で発言したことが始まりという噂があります。 果たして千田さんは〝くさったしたい〟のモデルなのかを検証してみましょう。 ただ、ドラクエを開発していたチュンソフトで、疲れ果てて床で眠り込んでいる千田さんが何度もスタッフに目撃されています。 エニックスは自社に開発部を持たずに開発はすべて外部委託でしたので、プロデューサーの千田さんは、チュンソフトに顔を出すことは多かったはずです。 エニックス社内では、開発陣とエニックスサイドのあいだに立って、社長の福嶋康博さんとやり合っていたでしょうし、また、シナリオの上がりが遅い堀井雄二さんの自宅前で、ライターの仕事を併行させていた堀井さんの帰りを待っては、シナリオの催促をしていたことも伝えられています。 タイトな開発スケジュールとプロデューサーとしての責任。現場の最高責任者としてのストレスと疲労は精神的にも肉体的にもすごかったことは想像に難くありません。 そんな状況の千田さんを、堀井さんがいたずら心を起こして、鳥山さんに千田さんをモデルにするよう依頼した・・・というのはあり得ると思います。 先にも書きましたが、千田さんは2018年3月31日付で、スクウェア・エニックスの取締役を退任されました。 1987年に旧エニックスに入社して、エニックス社長・スクウェア・エニックス副社長を務められた本多圭司氏は、2018年5月でスクウェアエニックスホールディングスの取締役も退任されました。若くして旧エニックス社長に就任された本多氏も60歳になられていました。 千田さんも68歳。旧エニックス創業から走り続けて36年が経ちました。 以上、『ドラゴンクエスト』初代プロデューサーの千田幸信さんの功績をまとめさせていただきました。 千田さんをスカウトしてエニックスを立ち上げ、現在、スクウェア・エニックスホールディングス名誉会長の福嶋康博さんの足跡をまとめたページはこちらからどうぞ。本嫌いの福嶋さんが息子さんの20歳の誕生日に送ったとっておきの名著とは?⇒(新しいページが開きます) 最後まで、読んでくださり本当にありがとうございました。 はる坊です。 1978年(昭和53年)に刊行された本 1978年(昭和53年)に入っても、西村寿行の勢いは増す一方でした。 『黄金の犬(上)』『黄金の犬(下)』『去りなんいざ狂人の国を』『われは幻に棲む』『わが魂、久遠の…長者番付
長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1989年分~1995年分)
毎年のベスト20までを列挙しています。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。1989年(平成元年)分所得税納税額
毎年のベスト20までを列挙しています。
ソースは、当時の新聞報道によるものです。長者番付・作家部門(1989年分~1995年分)です
1989年(平成元年)分所得税納税額
4億6173万円
2億6262万円
2億3699万円
1億5111万円
1億4012万円
1億0920万円
9508万円
8208万円
7829万円
7197万円
7190万円
6656万円
6637万円
6485万円
6011万円
5759万円
5718万円
5671万円
5526万円
5103万円
』で衝撃的なデビューを果たす。
〝在日フランス人〟ポール・ポネ名義での著作もある。
また、ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川の妹、藤島メリー泰子とのあいだに藤島ジュリー景子を儲けている。
馬主としても有名でランニングフリーなど名馬を所有していた。
収入には、本業の作家活動の他、ジャニーズ事務所からの役員報酬。馬主としての収入が大きかったといわれている。1990年(平成2年)分所得税納税額
3億7980万円
2億4497万円
1億1140万円
8736万円
8622万円
8185万円
7944万円
7927万円
7572万円
7266万円
6705万円
6618万円
6578万円
6239万円
6127万円
5929万円
5801万円
5760万円
5890万円
5404万円
3716万円
3095万円
2890万円
2081万円
1709万円
1991年(平成3年)分所得税納税額
3億5512万円
2億5489万円
1億7140万円
9101万円
8577万円
8404万円
8325万円
8171万円
7378万円
7290万円
6643万円
6508万円
6414万円
6003万円
5315万円
5294万円
5062万円
4933万円
4794万円
4393万円
3873万円
3737万円
3692万円
3584万円
2875万円
2078万円
1602万円
1992年(平成4年)分所得税納税額
3億5093万円
2億3698万円
1億8649万円
1億1944万円
7890万円
7650万円
7318万円
7261万円
7187万円
7155万円
6530万円
5902万円
5728万円
5486万円
5244万円
5233万円
4846万円
4822万円
4720万円
4673万円
が納税額4098万円
が納税額2000万円
1993年(平成5年)分所得税納税額
3億2209万円
2億2168万円
1億7412万円
9969万円
8624万円
7765万円
7689万円
7680万円
6970万円
6650万円
6384万円
6351万円
6050万円
5686万円
5365万円
5272万円
5224万円
5029万円
4979万円
4777万円
1994年(平成6年)分所得税納税額
3億2209万円
2億2500万円
1億7700万円
1億0287万円
8864万円
7957万円
7586万円
6786万円
6694万円
6449万円
5991万円
5986万円
長者番付
長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1984年分~1988年分)
ソースは、当時の新聞報道によるものです。1984年(昭和59年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
6億3836万円
1億8276万円
1億7432万円
1億7240万円
1億5615万円
1億0481万円
9941万円
8300万円
8157万円
8064万円
7429万円
7104万円
6714万円
6251万円
5884万円
4774万円
4521万円
4316万円
4251万円
1985年(昭和60年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
7億5709万円
2億4789万円
1億9872万円
1億4105万円
1億3745万円
1億2567万円
9333万円
8665万円
8061万円
6712万円
6459万円
6059万円
5971万円
5560万円
5131万円
5073万円
5007万円
4355万円
4300万円
3981万円
1986年(昭和61年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
8億6100万円
2億9662万円
1億4368万円
1億4036万円
1億1809万円
1億0914万円
1億0621万円
1億0458万円
9919万円
8904万円
7290万円
6774万円
6769万円
6664万円
6452万円
6064万円
6006万円
5781万円
5370万円
1987年(昭和62年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
6億4860万円
2億8468万円
1億4980万円
1億3190万円
1億0257万円
9533万円
9531万円
9331万円
8866万円
7536万円
7080万円
6404万円
6390万円
6255万円
6157万円
6111万円
6060万円
5576万円
5482万円
1988年(昭和63年)分 長者番付・作家部門 所得税納税額
5億8233万円
2億8833万円
2億5369万円
1億3898万円
1億0072万円
9920万円
8673万円
7903万円
7376万円
7018万円
6957万円
6931万円
6711万円
6237万円
6235万円
6079万円
5918万円
5913万円
5871万円
5598万円
1984年分~1986年分の所得税率について
1987年分の所得税率について
1988年分の所得税率について
参考までに、1984年分の住民税の税率です。
こちらもなんと、14分類に分かれていました。1985年分~1987年分の住民税の税率です。
1988年分の住民税の税率です。
は、絶版本・品切れ本を読者からの投票で復刊させる、ユーザー参加型のサイトです。
1970年代の話
長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1974年分~1983年分)
この時代、小説本は非常に読まれており、作家には印税収入を中心に大きな収入がありました。
簡単に説明をしますと、実収入ー経費=申告所得になります。
小説家の経費は実収入の30%が認められていたようです。
例)実収入・・・1億円
経費・・・3000万円
申告所得・・・7000万円当時の所得税率は恐ろしいものでした!
1974年分~1979年分は所得税+住民税=最高93%時代!
1974年分~1983年分の所得税率について
課税所得60万円超~120万円以下・・・・・・12%
課税所得120万円超~180万円以下・・・・・14%
課税所得180万円超~240万円以下・・・・・16%
課税所得240万円超~300万円以下・・・・・18%
課税所得300万円超~400万円以下・・・・・21%
課税所得400万円超~500万円以下・・・・・24%
課税所得500万円超~600万円以下・・・・・27%
課税所得600万円超~700万円以下・・・・・30%
課税所得700万円超~800万円以下・・・・・34%
課税所得800万円超~1000万円以下・・・・38%
課税所得1000万円超~1200万円以下・・・42%
課税所得1200万円超~1500万円以下・・・46%
課税所得1500万円超~2000万円以下・・・50%
課税所得2000万円超~3000万円以下・・・55%
課税所得3000万円超~4000万円以下・・・60%
課税所得4000万円超~6000万円以下・・・65%
課税所得6000万円超~8000万円以下・・・70%
課税所得8000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・75%
課税所得30万円超~50万円以下・・・・・・・5%
課税所得50万円超~80万円以下・・・・・・・6%
課税所得80万円超~110万円以下・・・・・・7%
課税所得110万円超~150万円以下・・・・・8%
課税所得150万円超~250万円以下・・・・・9%
課税所得250万円超~400万円以下・・・・・11%
課税所得400万円超~600万円以下・・・・・12%
課税所得600万円超~1000万円以下・・・・13%
課税所得1000万円超~2000万円以下・・・14%
課税所得2000万円超~3000万円以下・・・15%
課税所得3000万円超~5000万円以下・・・16%
課税所得5000万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%よって、1974年分~1983年分の所得税と住民税の最高税率は驚愕の93%でした。
参考までに、1980年分~1983年分の住民税の税率です。
課税所得30万円以下・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
課税所得30万円超~45万円以下・・・・・・・5%
課税所得45万円超~70万円以下・・・・・・・6%
課税所得70万円超~100万円以下・・・・・・7%
課税所得100万円超~130万円以下・・・・・8%
課税所得130万円超~150万円以下・・・・・9%
課税所得150万円超~230万円以下・・・・・11%
課税所得230万円超~370万円以下・・・・・12%
課税所得370万円超~570万円以下・・・・・13%
課税所得570万円超~950万円以下・・・・・14%
課税所得950万円超~1900万円以下・・・・15%
課税所得1900万円超~2900万円以下・・・16%
課税所得2900万円超~4900万円以下・・・17%
課税所得4900万円超・・・・・・・・・・・・・・・・・・18%長者番付・作家部門(1974年分~1983年分)です
1974年(昭和49年)分申告所得額
1975年(昭和50年)分申告所得額
1976年(昭和51年)分申告所得額分
1977年(昭和52年)分申告所得額分
1978年(昭和53年)分申告所得額分
1979年(昭和54年)分申告所得額分
1980年(昭和55年)分申告所得額
1981年(昭和56年)分申告所得額
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1982年(昭和57年)分申告所得額
1位 赤川次郎 4億0838万円人物伝
【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる②
人物伝
【ドラクエ王】スクウェア・エニックスの創業者 福嶋康博の人生がスゴすぎる①
渋谷区初台に大豪邸を構えるスクウェア・エニックス創業者・福嶋康博さんとは?
大昔は、田園調布。一昔前は成城。
特に渋谷区や港区。
ロッテの重光武雄氏や戸田建設の故・戸田順之助氏。
初台の福嶋邸は敷地面積は約1050坪。
加えて、別にバーベキューハウスもある大豪邸です。
この邸宅の延べ床面積は約430坪に及びます。スクウェア・エニックス創業者・名誉会長 福嶋康博さんの足跡
1947年北海道旭川市に生まれる。
当時、父親は旭川市内で映画館と質屋を経営していました。
このときに福嶋さんは初めて〝商売〟を経験します。全焼した映画館に落ちていた紙芝居の道具を拾って、紙芝居師のまねをして近所の子どもたちに物語を聞かせたのです。子どもひとりにつき5円のお金を得ました。
入部した理由が、〝試合の日には学校を休めるから〟であったので、ラグビー自体にはあまり興味がなかったのかもしれません。
しかし、恋愛も経験するなど、充実した高校時代を送ったようです。18歳で上京、日本大学理工学部建築学科へ進学
仕送りが足りない分は、アルバイトではなく自分の得意な事で稼ぐ
福嶋さんは友達の分も作品を作っては、それを売って稼ぎました。
友達と麻雀をするといつも福嶋さんの大勝。
当時から行動力には目を見張るものがあったようです。
実のところ、福嶋さんは構造計算が得意でしたが、少しも好きではなかったのです。就職をしたことがない!いきなり起業
中野ブロードウェイPRフリーペーパー構想
〝株式会社 ジャポン・アノンス 福嶋康博〟という名刺を作って、各階の商店会会長と交渉を開始します。
旧制中学校から1931年に大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)を卒業。その後、歯科冶金の研究をきっかけに、合金の魅力に取り憑かれて、「ミヤタ・ロイ」と呼ばれる超高質合金を開発。
1997年7月に亡くなっています。
編集作業を進めながら、福嶋さんはここが成功したら、今度は中央線の違う主要駅で挑戦しようと、夢を広げていきました。
しかし、事業を開始する段になって、福嶋さんは商店街の組合長から呼び出されます。
「えっ、登記ってなんですか? 会社は僕ひとりでやってますが・・・」
名刺に社名と名前を刷ればそれでいいと思っていたのです。最大8.3万円のキャッシュバックを含めた、最大12万円以上の申込特典は必見です!しかも、下り最大2Gbpsの超高速インタネット回線
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人物伝
ドラゴンクエスト・初代プロデューサー千田幸信はもっと評価されるべき
その後も、エグゼクティブプロデューサーとしてスタッフロールに名を連ねています。
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『ドラゴンクエスト30周年お誕生日カウントダウンスペシャル』でメッセージを寄せられていましたが、篤実で温厚な方だなという印象を受けました。現在、千田幸信さんはスクウェア・エニックス・ホールディングス取締役
千田さんに替わって『ドラゴンクエストⅧ』でチーフプロデューサを務められた三宅有さんもいらっしゃいます。千田幸信さんのプロフィール。漫画家・吉田戦車と親類!?
1950年9月29日岩手県生まれ。1972年に東海大学工学部中退。
血液型はO型で、親類に国際ジャーナリスト・政治学者の千田善さん、漫画家の吉田戦車さんがいます。
後述しますが、馬主であることから、競馬の予想を思いっきりカッコよく言った感じにも聞こえます。
その後、エニックス創業者の福嶋康博氏が設立した東芝のコンピュータ販売代理店エム・シー・ビーに入社しますが、しばらくして退社。
このときエニックスのメンバーは、社長の福嶋氏と千田氏、そして高野豊氏の3名だけでした。
エニックス創生期のゲームコンテストで見出した堀井雄二さんと中村光一さんとともに『ドラゴンクエスト』を開発
・他にもゲームコンテストは開催されていたが、最優秀賞が出ないコンテストが多かった
・うさんくさい会社がゲームコンテストを実施して悪い噂が流れていた
そして、これがいちばん大きな理由でした。
・エニックスが無名会社だったから
このときに、千田さんの応対をしたのが、鳥嶋和彦さんです。
マイコン雑誌『I/O』に投稿して認められ、開発したツールの原稿料や投稿したゲームが販売されて発生した印税を得るとPC-8801を購入。
エニックスのコンテストに『ドアドア』を応募します。
ゲームの審査では、面白く遊べるゲームとそうではないゲームがハッキリ分かれていたので、苦労はなかったと福嶋さんが語っています。千田さん「世界一のゲームを作ります」と宣言して生まれた『ドラゴンクエスト』
こうして始まったのが、『ドラゴンクエストⅠ』の製作プロジェクトです。
プロジェクト開始にあたって、千田さんは「世界一のゲームを作ります」と宣言しました。
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー 千田幸信
キャラクターデザインを鳥山明さんが担当することになったのは、少年ジャンプの編集者・鳥嶋和彦さんの後押しによるもので、音楽をすぎやまこういちさんが担当することになったのは、何と、本人直々に、エニックスのゲームのアンケートハガキを投函して、エニックス社員がそれに気付き、千田さんがすぎやまさんと会ったことから始まります。
音楽 すぎやまこういち『ドラゴンクエストⅡ』以降の千田幸信さんについて
しかし、売上は前作をはるかに超える240万本を記録。『ドラゴンクエスト』はキラーソフトとして確立されていきます。
シナリオ・ゲームデザイン 堀井雄二
キャラクターデザイン 鳥山明
音楽 すぎやまこういち
ディレクター・プログラム 中村光一
プロデューサー 千田幸信
というスタッフ陣は、不動のものになり、同時にドラゴンクエストもⅢをもって人気を不動のものとします。
それからもエグゼクティブプロデューサーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けます。
1992年7月には専務取締役に就任されますが、何と翌年の3月まで、
ソフトウェア企画部担当 兼 出版企画部担当 兼 玩具企画部担当 兼 出版営業部担当
とエニックスの事業の大半において、現場の最高責任者となり、相当にお忙しかったのではないかと思います。
(もっとも、出版事業に関しては、同時に保阪嘉弘さんが出版企画部長となっていたので、その後見役という立場だったのかもしれませんが)
1993年4月からは、専務取締役 商品企画本部となり、ゲーム事業を中心に見ていくことになります。
1995年2月にはトイホビー事業部長も兼ねて主にドラクエグッズの展開にも力を注ぎます。
2002年10月に取締役、旧スクウェアと合併して、スクウェア・エニックスが発足した2003年4月からは引き続き取締役を務め、現在はスクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役を務めています。馬主としての千田幸信さんの実績もなかなかすごい!
1982年8月の会社設立から僅か9年での株式上場は、当時としては異例の早さであり大いに注目を浴び、上場時の初値は12000円を付けました。
活躍した馬には
「ジョンカラノテガミ」獲得賞金1億6541万円
「セタガヤフラッグ」 獲得賞金1億2215万円
「バロンカラノテガミ」獲得賞金 8936万円
「パブロカラノテガミ」獲得賞金 5213万円
「ベルベットスマイル」獲得賞金 4994万円
「ベガスカラノテガミ」獲得賞金 4877万円
がいます。
中央競馬で千田さんがこれまでに獲得した賞金は総額で6億4300万円に上ります。スクウェア・エニックスホールディングス取締役を務める千田幸信さんの役員報酬は年間1900万円
これは、提出された有価証券報告書から計算が可能です。
他にスクウェア・エニックスホールディングスの常勤役員をこの年度に務められていた方の役員報酬は、
金銭報酬分:2億3000万円 ストックオプション分:2500万円 合計年間役員報酬は2億5500万円
金銭報酬分:(スクエニHD分)4100万円(SQUARE ENIX LTD分)5900万円 ストックオプション分:1500万円 合計年間役員報酬は1億1500万円
金銭報酬分:8900万円 ストックオプション分:1500万円 合計役員報酬は1億400万円
また、和田洋一社長時代もそうでしたが、社長だけは報酬を2億円程度受け取る形が続いているのですね。スクウェア・エニックスに務める役員や従業員の年収はいくらなのか?
ちなみに、持株会社化されるまえの2008年の段階で、従業員は1932名(平均年齢32.6歳)平均年収615万円でした。旧エニックスは安月給だった? ケチックスと呼ばれたのはなぜか?
また、エニックスは開発部隊を持たず、居るのはプロデューサーだけで、デベロッパーにゲームの製作を任せていたのですが、その報酬体系がドラゴンクエストシリーズを基準としていたので、金払いが悪いイメージがありました。
たしかに、出せば300万本以上売れるドラクエ以外のゲームでは、売上的にいえば『スターオーシャン セカンドストーリー』の72万本が最高ですので、そういうイメージを持たれてしまったのだと思います。
2004年4月にエニックスはスクウェアを吸収する形で合併しますが、その寸前の2社の従業員の年収がこちらです。
従業員:138名(平均年齢:33.3歳) 平均年収:576万6676円
従業員:888名(平均年齢:31.5歳) 平均年収:650万7776円
2000年頃、まだ高額納税者公示制度があった頃、ネットで誰でも無料で誰が1000万円以上所得税を納めているかを、1999年~2001年分くらいまで見られるサイトがありました。
そのサイトで調べてみると、ドリームキャスト発売時に〝日本一有名な専務〟になった当時のセガエンタープライゼスの湯川英一専務が、年収4500万円程度。
また、カプコン常務や専務を務めていた『モンスターストライク』の生みの親である岡本吉起さんが年収8000万円強と、ゲーム業界で偉い人は、結構もらっているんだなと思った者ですが、(クルマも湯川専務はマセラティ3200GT。岡本さんはポルシェ911やその他のクルマも保有されていました)、エニックス関係者は、千田さんを含めて、株式配当が多い社長の福嶋康博さんを除いて公示対象外でした。〝くさったしたい〟と〝ゆきのふ〟のモデルは千田幸信さん!?
当時の千田さんの顔写真をご用意しました(モノクロですみません)ので〝くさったしたい〟と並べてみましょう。
どうでしょうか?
顔の輪郭や髪型が似ているような気がしますが・・・スクウェア・エニックス・ホールディングスの取締役も退任か?
あと数年で、スクウェア・エニックス・ホールディングス(スクエニHD)の取締役も退任される予感がしてなりません。
そろそろ、現役を引退して、ユーザーとして『ドラゴンクエスト』を見守り続けられるのではないでしょうか。
他にもお役に立てる記事があるかと思いますので、どうぞお楽しみくださいませ。人物伝
昭和後期の超人気作家 西村寿行は本当に凄すぎた! その3
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