はる坊の雑記

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次期社長候補か?『餃子の王将』を展開する王将フードサービス新取締役候補・池田勇気氏のプロフィールと現在の社長・常勤役員の就任状況

王将フードサービスの常勤役員就任状況と新取締役に就任予定の池田勇気氏とは?

はる坊です。

今回は2023年6月28日の株主総会後に、

王将フードサービスの取締役 執行役員 営業企画部長に就任予定の池田勇気氏と

同社の常勤役員就任状況とについてまとめます。

池田勇気氏は、大阪経済大学卒業後に新卒入社した42歳

池田勇気氏は、1980年11月14日生まれの42歳です。

池田氏は高校時代から大阪経済大学経済学部経済学科卒業まで、餃子の王将 京橋駅前店でアルバイトをされていました。

そして、大学卒業後の2003年4月に新卒で入社。
京橋駅前店の現場スタッフを皮切りに、福島店・関目店・京橋駅前店・箕面半町店の店長を務め、
2009年11月に空港線豊中店の店長に着任。
この空港線豊中店は、火曜日~土曜日は24時間営業をしているお店です。
また、餃子の王将の店舗中、日本一の売上を誇る店舗でもあります。

この店舗の店長を任されるということは、将来の王将を背負って立つ人材として、
期待されているという意味を持ちます。

店長着任後、店舗の過去最高売上を更新した池田氏は、2014年にエリアマネージャーに昇格。
その後、2016年7月に営業企画推進部 副部長。
2017年8月 販売促進部 副部長
2018年6月 販売促進部長

とキャリアを重ね、

2022年には、執行役員 営業企画部長に就任。
今回の取締役就任に至ります。

王将フードサービスの常勤役員就任状況

繰り返しになりますが、新取締役候補の池田勇気氏は、1980年11月14日生まれの42歳です。

現在の王将フードサービスの常勤役員(社外役員を除く)を見てみると、

池田氏が若く期待されている人材であることがわかります。

代表取締役社長の渡邊直人氏が1955年8月19日大阪府生まれの67歳。
桃山学院大学経済学部卒業後の1979年に新卒入社。
大東隆行氏の後任として、2013年12月に社長に就任されています。
2021年度の役員報酬は1億1,200万円(金銭報酬:8,300万円 非金銭報酬:2,900万円)でした。

専務取締役 執行役員の門林弘氏が1963年1月17日大阪府生まれの60歳。
担当:営業本部長 西日本第1営業部長 営業サポート部長 王将大学学長 東京事務所長
大阪府立伯太高等学校卒業後の1981年に新卒入社されています。

専務取締役 執行役員の池田直子氏が1964年6月13日生まれの58歳。
担当:社長補佐 経営戦略本部長 経営デジタル推進準備室長
東京経済大学短期大学部商経科卒業後、新卒で安田火災海上保険株式会社(現在の損害保険ジャパン株式会社)入社。
その後、ご結婚・ご出産を経て、ファイナンシャルプランナー・社会保険労務士として独立。
そして、2015年6月に王将フードサービス取締役に就任され、
常務取締役 取締役相談役 取締役社長補佐を経て、2022年6月より現職です。
なお、池田直子氏は、2023年6月28日の株主総会をもって、専務取締役を退任予定です。

常務取締役 執行役員の戸田光祐氏が1968年2月8日生まれの55歳。
担当:執行役員 製造本部長 製造部長 工場管理部長 購買部長
1996年4月に、株式会社三和総合研究所(現:三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社)入社。
同社 チーフチーフコンサルタントを経て、2018年10月に王将フードサービス執行役員。
2019年6月より常務取締役を務めておられます。
なお、戸田光祐氏も、2023年6月28日の株主総会をもって、常務取締役を退任予定です。

常務取締役 執行役員の稲垣雅弘氏が1958年5月14日生まれの65歳。
担当:執行役員 管理本部長 経理部長 総務部長 広報IR部長
大学卒業後の1981年4月に、株式会社日本債券信用銀行(現:株式会社あおぞら銀行)へ入行。
同行 営業第七部長を経て、アビックス株式会社と株式会社アイディーズにて両社の管理部門担当役員を歴任。
2017年7月に王将フードサービスに入社と同時に経理部長に就任。
その後、執行役員→取締役→常務取締役と昇任され、同社の管理部門を統括する立場になられています。

もうひとりの新取締役候補 山田誠氏にも注目

前述した池田勇気氏とともに、もうひとり常勤取締役に就任予定の方がおられます。

現在、執行役員 管理本部 副本部長・経営戦略本部 副本部長・情報サービス部長を務められている、
山田誠氏です。

山田氏は1966年12月26日生まれの57歳。
京都産業大学経済学部経済学科卒業後の1989年4月に株式会社ダイエーに入社。
ローソンへの出向を経て、2000年5月に正式転籍。
その後、2002年10月にフューチャーアーキテクト株式会社に転職。
2010年3月には、佐川急便グループの社内ITを担当するSGシステム株式会社に転じて、同社のIT関連運用の管理職として活躍。
2012年9月には、親会社のSGホールディングスにて、グループ全体のITを担当。
2018年4月には、SGシステムに戻られ、管理部長として、総務・人事・法務・経理を統括。
2022年2月に、王将フードサービスに入社。
2022年7月には、情報サービス部長に就任。
2023年2月には、執行役員に就任されると同時に、管理本部 副本部長と経営戦略本部 副本部長を兼任されるに至ります。

2023年6月28日の株主総会をもって、専務取締役 経営戦略本部長 経営デジタル推進準備室長を退任される
池田直子氏の後継者として、
また、常務取締役 管理本部長の稲垣雅弘氏を支える立場となられるのではないでしょうか。

王将フードサービスの年収について

最後に、現在の王将フードサービスの給与・年収について触れます。

月額の給与ベースは飲食業界で高いほうになります。

過去には、残業代の不払い(サービス残業)が問題になっていたようですが、
現在は、残業代はキッチリ払われているようです。

年収は2年目の店舗スタッフで380万円以上。

副店長で500万円~600万円

店長で700万円~800万円

エリアマネージャーで800万円~900万円

王将フードサービスのボーナスについて

気になるボーナスですが、夏・冬・決算の年3回支給です。

ただし、ボーナス額はあまり期待ができないようです。

会社や店舗の業績や個人査定もありますが、

年間で1ヶ月~3ヶ月というところです。

月額給与を手厚くして、賞与は少なめ、という形のようです。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

よろしければ、下記もご覧くださいませ。

今後もデータを更新してまいりますので、よろしくお願いいたします。

はる坊拝

餃子の王将を展開する 王将フードサービス店頭公開(JASDAQ上場)時の情報

餃子の王将を展開する王将フードサービスは、1993年3月16日に株式店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たしました。

上場時のデータは以下のとおりです。

株式会社 王将フードサービス

会社設立:1974年7月

店頭公開:1993年3月

資 本 金:19億100万円

総 資 産:394億5600万円

株主資本:88億8300万円(22.5% 748円)

借 入 金:198億1000万円

金融収支:▲6億7300万円

従業員数:748名(平均年齢 31.6歳)

平均賃金:378,158円

株主構成:

加藤欣吾 287万1000株(24.1%)

加藤潔  265万1000株(22.3%)

加藤朝雄 179万5000株(15.1%)

加藤梅子  93万2000株(7.8%)

従業員持株会 30万1000株(2.5%)

加藤ひろみ 22万0000株(1.8%)

大東隆行 20万3000株(1.7%)

加藤貴司 20万3000株(1.7%)

加藤英里 20万3000株(1.7%)

加藤真人 20万3000株(1.7%)

役員構成:

代表取締役社長:加藤朝雄

取締役副社長  :望月邦彦

専務取締役  :加藤潔

常務取締役  :加藤欣吾

常務取締役  :大東隆行

常務取締役  :鈴木和久

取締役    :土肥原啓二

取締役    :宮嶋廣正

取締役    :宮光正

取締役    :知久平芳美

取締役    :森田八寿広

取締役    :村上武敏

常勤監査役  :小坂晴一郎

監査     :野中智弘

上場当時の王将は、日銭が入る商売とはいえ、あまり財務状況が良いとはいえず、公募株式で得た資金は、借入金返済に充てるつもりだったようです。

王将フードサービス 業績推移

それでは、1989年~1992年までの餃子の王将の決算を見ていきましょう。
急成長期には終わりを告げていますが、しっかり順調に伸びています。

1989年3月期決算:

(こちらのみ変則決算)

売上高:221億1,700万円

営業利益:24億2,100万円

経常利益:12億7,700万円

最終利益:5億1,900万円

1990年3月期決算:

売上高:265億3,200万円

営業利益:29億2,000万円

経常利益:13億8,300万円

最終利益:5億1,900万円(1989年3月期と同額)

1991年3月期決算

売上高:276億7,770万円

営業利益:32億6,000万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:9億2,000万円

1992年3月期決算

売上高:288億9,000万円

営業利益:35億6,900万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:12億5,100万円

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)との関係は?

日本に〝王将〟は2つあります。

王将フードサービスが運営する「餃子の王将」

イートアンドホールディングス傘下の事業会社・大阪王将が運営する「大阪王将」です。

大阪王将の創業者・文野新造氏は加藤朝雄氏の親族といわれています。

最初、京都に店舗展開を進めていた餃子の王将からのれん分けをしてもらう形で、1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を開いたのが大阪王将の始まりです。

餃子の王将との違いは、まず経営スタイルです。

文野氏の中華料理店のメニューは、餃子とチャーハン、ラーメンの3品のみでしたが、餃子が一人前50円であったことから、安くてうまいものに目のない大阪人のハートを、いきなりガッチリと掴みます。

文野氏は店の売上が餃子中心であることに着目して、1969年3月から餃子専門店に業態を変更します。

餃子のみにメニューを絞ったことで、構えの大きい店舗展開が必要がなくなり、大阪王将は順調に店舗を増やしていきます。

そして、文野新造氏の個人事業から、1977年8月には、大阪王将食品株式会社に法人成りを果たします。

二代目社長となる文野直樹氏は、この頃から厨房に立って店の経営に携わっていました。

1982年には100店舗を達成しますが、一説によると、大阪王将の店舗を京都に出店したことにより、加藤朝雄氏との関係が悪化。商標権を巡って裁判沙汰にまでなってしまします。
結局、1985年に和解が成立しますが、1980年代前半に大阪証券取引所(新市場ベンチャー向け)2部への上場を目指していた加藤氏にとっては、この裁判が上場への大きなネックになったのかもしれません。

この当時、この大阪証券取引所2部に新しく作られた新市場で上場を果たして、のちに東証1部上場企業となった会社にコナミホールディングスがあります。

その後、餃子の王将と大阪王将は袂を分かち、お互いに独自の経営戦略で事業を発展させていきます。

大阪王将は、1990年代初めに商事部という部署を創設します。1993年9月には商事部から冷凍食品の餃子を生協向けに販売を開始。
自宅でも大阪王将の味が楽しめるようになりました。

その後、社名も大阪王将食品から大阪王将に変更。

そして、2002年1月にはイートアンド株式会社にまたも商号変更します。

堅実な店舗展開と冷凍食品の販売を進めながら、東京進出を果たし、2011年6月には大阪証券取引所JASDAQ市場に株式を上場。
2002年11月に東京証券取引所第2部上場を経て、2013年11月に東京証券取引所第1部に指定替えをおこないました。
晴れて、東証1部上場企業となった訳です。

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)歴代社長

ちなみに、『餃子の王将』を展開する王将フードサービスの創業者・社長が加藤朝雄氏で、
二代目社長がアサヒビールより招聘した望月邦彦氏。
三代目社長が加藤朝雄氏の長男・加藤潔氏。
四代目社長が大東隆行氏。
現在の五代目社長が渡邊直人氏です。

渡邊氏は、1955年8月19日生まれの67歳。1979年に桃山学院大学経済学部を卒業後、新卒入社。
1984年12月には早くも営業部次長となり、主に東京地区のエリアマネージャーや地区本部長を経て、
2004年に取締役、2008年に常務取締役となり、2013年12月に代表取締役社長に就任されています。

『大阪王将』を展開するイートアンドホールディングスの創業者が現在の代表取締役会長の文野直樹氏の父親である文野新造氏です。
創業メンバーである佐野文夫氏と本木健二氏とともに1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を出店したところ、
餃子の売れ行きがダントツであったことから、早々に、餃子専門店に業態を変えています。

株式会社イートアンドホールディングスの代表取締役会長CEO 文野直樹氏の経歴

イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOは文野直樹(ふみの なおき)氏です。
1959年11月29日生まれの62歳。
啓光学園高校を卒業後、大阪学院大学経営学部に進学するも1980年に中退。
実父・文野新造氏が経営する大阪王将食品に正式入社して、1984年7月に社長に就任したという経歴の持ち主です。

1996年8月に株式会社大阪王将に商号を変更。

2002年1月にイートアンド株式会社に商号を変更。

2011年6月に株式をJASDAQ市場に上場。

2012年11月に東京証券取引所第2部に上場。

2013年11月には、ついに東京証券取引所第1部上場を果たしています。

そして、2020年11月には、持株会社への移行とともに、株式会社イートアンドホールディングスとなり、大阪王将の運営会社は株式会社大阪王将となっています。

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COO 仲田浩康氏の経歴

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COOは仲田浩康(なかた ひろやす)氏です。
大阪王将の冷凍食品を扱う事業会社の株式会社イートアンドの代表取締役社長も兼任されています。

仲田氏は1964年4月26日生まれの57歳で、高校を卒業後、当時、流通業界で最大手だったダイエーに入社。
23歳で最年少主任となるなど活躍をしたのち、2000年8月に大阪王将に転職。

ご本人がインタビューで語られているところでは、ダイエーでは実績を残されていたので、大阪王将に移られた際には、給与・年収ともにダウンしたそうです。

その後、2001年7月に商事部部門長。2004年6月に取締役。2009年4月に取締役 常務執行役員 トレーディング本部長。
2012年4月 専務取締役。2017年6月にはついにイートアンドの代表取締役社長に就任。
持株会社移行後は、取締役社長COOに就任されています。

また、社会人となっても向学心を忘れず、関西学院大学大学院に進み修了されています。
よって、最終学歴は関西学院大学大学院修了となっています。

株式会社大阪王将の代表取締役社長 植月剛氏の経歴

大阪王将を運営する株式会社大阪王将の代表取締役社長は植月剛(うえつき たけし)氏です。
持株会社である株式会社イートアンドホールディングスの取締役も兼任されています。

植月氏は1972年7月13日生まれの49歳で、龍谷大学社会学部卒業後、1995年4月に大阪王将に新卒入社。

その後、2006年6月に取締役。2009年4月に取締役 執行役員 王将営業本部長。
大阪王将の海外事業部門も統括します。
2012年4月には、取締役 常務執行役員 王将営業本部長。
2019年4月に常務取締役 外食事業統括兼海外戦略本部長。

と順調にキャリアを積んで、2020年10月に大阪王将の代表取締役社長に就任されています。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊拝

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ご長男の三浦陽一郎氏・ライトエアー社長の名畑博夫氏が共同代表取締役!さくらももこさんの事務所 さくらプロダクションの現在

さくらももこさんの事務所 さくらプロダクションの現在は?

はる坊です。

2018年8月15日に漫画家のさくらももこさんが亡くなられました。
亡くなられてから、もうすぐ2年半かと思うと、月日の経つのは早いものだと感じます。

漫画家としても有名なさくらさんですが、エッセイストとしてもすぐれた作品を残されています。

もともと、さくらさんご自身はエッセイストになりたかったけれど、その方法がよくわからなかったこと。
また、知名度のない人間のエッセイなど、書いたところで誰も手に取って読んでくれやしないだろうと思ったので、まず漫画家になったという話があります。

特に、1991年に刊行された『もものかんづめ』(累計235万部) 

1992年に刊行された『さるのこしかけ』(累計150万部) 
同じく1992年に刊行された『たいのおかしら』(累計130万部) 

の初期エッセイ集はミリオンセラーとなり、広く読まれました。

中学校の授業で使う副読本にも、エッセイの文章が使われていました。

さて、20代前半の若さで『ちびまる子ちゃん』を大ヒットさせたさくらさんは、1990年2月6日に、株式会社さくらプロダクションを設立しています。

会社設立の理由としては、著作物の版権管理をスムースにおこなうこと、アシスタントなど、周囲にいる方々への福利厚生面での配慮、そして税金対策が挙げられると考えます。

あれだけ大ヒットした『ちびまる子ちゃん』ですが、作者であるさくらももこさんは長者番付上位に登場されたことはありません。
(さくらさん個人で7000万円ほど納税されていた年もありましたが、そうなると当時の年収は1億5000万円以上となります)

これはさくらプロダクションで納税されていたことが大きいでしょう。

さくらさんが亡くなられてからも、日曜6時からはアニメ『https://amzn.to/2NYuIsV』が放映されており、企業のCMキャラクターにも起用されています。

また、『りぼん』にも新作が掲載されることがあり(原作:https://amzn.to/3f7ms5N 漫画:さくらプロダクション の扱いです)、キャラクターグッズも多く販売されています。

現在は息子さんがさくらプロダクションの社長

株式会社さくらプロダクションは、1990年2月6日に設立されています。

さくらももこさんは、前年の1989年に集英社『りぼん』の編集者だった宮永正隆さんと結婚され、宮永さんは1990年に集英社を退社、さくらプロダクションの社長に就任しました。

1965年5月8日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれたさくらさんは、地元の静岡県立清水西高等学校と静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科を卒業して、上京。

ぎょうせいにOLとして勤務しますが、すでに漫画家としてデビューを飾っており、勤務時間後は漫画を描くため睡眠時間が足りず、居眠りが目立つことを上司に注意された際に、「会社か漫画かどちらかを選べ」と言われたことから、「ちびまる子ちゃん」の連載も決定していたことから、「そりゃ、漫画にしますと」即答して2ヶ月で退社。(この覚悟の据わりっぷりはスゴイと思います)

宮永さんとの離婚後は、さくらさんご本人が、代表取締役社長となり、取締役には、父・ヒロシさんと母・スミエさんが名を連ねて、監査役にも親族の方が就任されていました。

さくらももこさん亡き後の2019年1月17日にさくらさんの長男・三浦陽一郎さんが取締役に就任され、同年3月29日に代表取締役社長に就任されました。
同時に、父・ヒロシさん 母・スミエさんは取締役を退任されています。

さくらさんの父・ヒロシさんは静岡県清水市(現・静岡市清水区)で八百屋を営まれていましたが、さくらさんが漫画で成功されるとともに、スミエさんとともに東京へ移住されています。

『ちびまる子ちゃん』の原作やアニメだと、ヒロシさんには、この仕事をしているという設定がないので、何の仕事をしているかわからないのですが、これはさくらさんご自身が八百屋だとバックに野菜や果物などを背景に描くことを嫌ったことが原因という説があります。

私は何となく、1990年にアニメを見始めた頃、「ヒロシさんは、製造業関係の技術屋さんかなあ…」と思っていました。
個人的には、ヒロシさんより友蔵さん(リアルでも漫画の世界でも)が、何の仕事をされていたのかが気になります。

累計発行部数3200万部以上となった『ちびまる子ちゃん』のメガヒットで、巨額の印税が入って、生活は左うちわでうらやましいと思われるかも知れませんが、著作権をしっかり管理して、作品のイメージを損なわないようにコントロールしていくのは大変なことです。

これからもさくらももこ作品が、広く愛されていきますように。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

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最強のファミリービジネスだった 長谷川町子『サザエさん』と姉妹社

2020年は『サザエさん』の原作者・長谷川町子さんの生誕100年

はる坊です。
2020年は『サザエさん』の原作者・長谷川町子さんの生誕100年にあたります。

長谷川町子さんは1920年に佐賀県生まれ、福岡県を経て東京都に移住。
『サザエさん』『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』という大ヒット漫画を生み出して、1992年に逝去されました。
没後贈呈ですが、国民栄誉賞を授与されています。

『サザエさんは』1969年からアニメ化され、「古き良き時代の日本の家庭が見られる」という肯定的な意見と「時代とズレている」という否定的な意見がありますが、ずっと日曜日18時30分から毎週放映されています。

長谷川家が営んでいた出版社・姉妹社

『サザエさん』の原作は四コマ漫画として、地方紙であるフクニチ新聞などを経て、休載を挟みながら25年に渡り、朝日新聞に連載。

『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』はサンデー毎日に連載されていました。

とすると、コミックスの発行は朝日新聞社と毎日新聞社となるのが通常の流れですが、長谷川町子作品はすべて、姉妹社という長谷川家が営んでいた出版社から発行されていました。

姉妹社が発行しているのは、長谷川町子作品だけ。
つまり、確実に、絶対に売れる作品だけを出版していました。

姉妹社は長谷川町子さんが1992年に亡くなられたことにより、1993年5月27日に廃業して、著作権は1985年9月3日に設立されていた財団法人 長谷川町子美術館に引き継がれました。
長谷川町子美術館は現在、一般財団法人となっています。

姉妹社が設立されたのは1946年12月のこと。
この姉妹社が株式会社だったのか有限会社だったのか、それとも個人事業だったのかはよくわかっていません。

工藤美代子『』では、“姉妹社が株式会社あるいは有限会社として登録された記録はない”となっています。

姉妹社設立の中心となったのは、町子さんの母・長谷川貞子さんと姉の長谷川毬子さんでした。
そして、妹の長谷川洋子さんが経理を担当します。

翌1947年1月1日付で、夕刊フクニチに連載されていた『サザエさん』をコミックスとして発行したのが、最初の出版事業でした。

最初は、本のサイズが書店に置きづらいB5サイズになっていたので、返本の洗礼も受けたようですが、3巻目が出る頃には順調に売れはじめ、1950年には〝サザエさんのまち〟として知られる世田谷区桜新町に640坪の敷地面積をもつ邸宅を新築しています。

長谷川町子さんの収入

気になるのが、長谷川町子さんの収入ですが、年収が判っているのは以下のとおりです。

1971年分 申告所得2453万円
1972年分 申告所得1682万円

この当時、公示されていたのは申告所得額です。
実際の収入-必要経費=申告所得となります。

実際の収入は申告所得の2倍といったところが多かったようです。

いまから50年前と、時代も時代ですが、
「えっ、これだけ?」と思われた方もおられるかもしれません。

そんなあなたは鋭いです。

次の申告所得額を見てどう思われますでしょうか?

1971年分 申告所得1億3273万円
1972年分 申告所得2億2629万円

現在から見ても、超高収入です。
これは、町子の姉・長谷川毬子さんの申告所得です。
1972年分では母の貞子さんも申告所得2238万円。
妹の洋子さんも申告所得1402万円です。

長谷川家の皆さんは、姉妹社に入って来る莫大な収入を、家族に分散していました。
姉の毬子さんの申告所得額が桁外れなのは、姉妹社の経営者だったこともありますが、町子さんの収入を大きなものにしてしまうと、『サザエさん』読者や視聴者から、

「一般家庭を描いているけど、作者本人はものすごいお金持ちじゃないか」

と思われるのが嫌だった、という点が考えられます。
そういった見方を避ける必要があったのではないかと思います。

姉妹社に必要なのは〝社員〟ではなく〝奉公人〟

1976年に現在、長谷川町子美術館の理事長兼館長を務めている川口淳二さんが、義母のツテで商社から姉妹社に転職しています。

このときの面接で、社長の毬子さんが川口さんに告げた言葉が印象的です。

「うちは〝社員〟ではなく〝奉公人〟でなければ務まらないけど、どんな仕事でもできる?」

奉公人とは、ずいぶんと時代がかった言葉ですが、長谷川家に忠誠を誓える人間しかいらないとする、毬子さんの強い意思が感じられます。

実際、川口さんは出版関係から掃除や庭の草むしり、運転手もこなす〝何でも屋〟を務めます。
川口さんによれば、この頃、姉妹社の社員は7名ほどだったとのことです。

雑誌『東京人』2020年5月号に、長谷川町子特集があります。
なかなか読み応えのある特集号ですので、興味のある方は一読されることをお勧めします。

長谷川町子美術館と遺産の行方

長谷川町子美術館の建設計画がスタートしたのは1980年です。
昭和30年代から収集をはじめた絵画や陶芸品、ガラス工芸品を社会還元することを目的に、財団法人による美術館運営を目指していましたが、実際に設立が認可されたのは1985年9月3日のことでした。

そして、同年11月3日に財団法人 長谷川美術館として、姉妹社が倉庫として使用していた土地に建てられた建物が美術館としてオープンします。

初代館長には長谷川町子さん自身が就任しています。

この財団法人には美術品の社会還元の他に、相続税対策も絡んでいました。
母・貞子さんは優秀な不動産投資家で、晩年は認知症を患われていましたが、その資産は10億円に達していました。
この資産を相続税にもっていかれることなく、処理をするには、自前の財団法人に寄付するのが一番の方法でした。

発足当時、財団が有していた資産は12億円でしたが、2008年の時点では、何と96億円となっています。
ですが、現在、この財団の役員に長谷川家の方はどなたもおられません。
長谷川町子さんが収集された美術品の社会還元と、その著作権の管理運営保持を役割としています。

1992年5月27日、長谷川町子さんは72歳でその生涯を終えます。
同年7月28日には、国民栄誉賞が没後贈呈されました。

長谷川町子さんの名前が、再び世間を賑わせるのは翌年のことです。
町子さんの遺産額が税務署に公示されたのです。
当時は一定額以上の遺産があった場合、遺産額と相続人を税務署が公示していました。

長谷川町子さんの遺産額、何と29億8800万円。

同じく前年に亡くなった松本清張でさえ、遺産額は17億5700万円でした。

そして、町子さんの遺産額が公示されてまもなく大事件が起こります。
多磨霊園から、町子さんの遺骨が盗まれたのです。

その後、犯人からの脅迫状が届き、結果として、遺骨は渋谷駅のコインロッカーで発見されて、遺族の元に戻りました。

犯人とのやりとりは、一切警察が明かしていません。
ですが、ある週刊誌では「2000万円の要求があった」と記されています。

日曜夜に放送され続けている『サザエさん』ですが、その裏側にはとてつもない歴史がありました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

参考文献:

長谷川町子『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』
長谷川洋子『サザエさんの東京物語』
工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』