はる坊の雑記

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【2002年版~2004年版】米フォーブス誌 世界長者番付 日本人歴代ランキング

はる坊です。

今回は、2002年版~2004年版の米フォーブス誌にランクインした、日本の大富豪を資産額順にご紹介します。
役職は、当時の役職を掲載しています。

2002年版

1位

佐治 信忠(Nobutada Saji)

資産額:1兆1,180億円

役職:サントリー会長兼社長

学歴:甲陽学院高等学校卒業・慶應義塾大学経済学部卒業
   カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営大学院修了

※サントリー2代目社長(のち会長)を務めた佐治敬三の長男。
ソニー商事を経て、サントリーに入社、副社長から2001年に社長就任。
2002年よりサントリー会長職を兼務(~2009年)。

2位

武井 保雄(Yasuo Takei)

資産額:6,760億円

役職:武富士会長兼社長・創業者

学歴:明戸村立(現:深谷市立)明戸国民学校高等科卒業

3位

木下 恭輔(Kyosuke Kinoshita)

資産額:4,810億円

役職:アコム社長・実質創業者

学歴:立命館大学法学部卒業

4位

岩崎 福三(Fukuzo Iwasaki)

資産額:4,550億円

役職:岩崎産業 社長・鹿児島商工会議所会頭 名誉会頭

学歴:立教大学経済学部卒業

5位

森 章(Akira Mori)

資産額:4,290億円

役職:森トラスト 社長

学歴:慶應義塾大学経済学部卒業

※森ビル会長・社長を務めた森稔の実弟。
森ビル創業とともに、賃貸ビル事業に従事した兄・稔と異なり、
36歳となる1972年まで、安田信託銀行でサラリーマンとして勤務していた。

6位

糸山 英太郎(Eitaro Itoyama)

資産額:4,030億円

役職:新日本観光興業 社長・元参議院議員
   湘南工科大学 総長・理事長

学歴:日本大学経済学部卒業
   近畿大学大学院中退

同額7位

伊藤 雅俊(Masatoshi Ito)

資産額:3,770億円

役職:イトーヨーカ堂名誉会長

学歴:横浜市立商業専門学校(現:横浜市立大学商学部)卒業

同額7位

福田 吉孝(Yoshitaka Fukuda)

資産額:3,770億円

役職:アイフル社長・創業者

学歴:京都市立西院中学校卒業

9位

堤 義明(Yoshiaki Tsutsumi)

資産額:3,250億円

役職:コクド(国土計画)会長・西武鉄道会長

学歴:早稲田大学商学部卒業

10位

山内 溥(Hiroshi Yamauchi)

資産額:2,990億円

役職:任天堂 社長

学歴:京都第一商業学校(現:京都市立西京高等学校)卒業
早稲田大学専門部法律科中退

2003年版

1位

佐治 信忠(Nobutada Saji)

資産額:8,520億円

役職:サントリー会長兼社長

学歴:甲陽学院高等学校卒業・慶應義塾大学経済学部卒業
   カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営大学院修了

2位

武井 保雄(Yasuo Takei)

資産額:6,000億円

役職:武富士会長・創業者

学歴:明戸村立(現:深谷市立)明戸国民学校高等科卒業

同額3位

糸山 英太郎(Eitaro Itoyama)

資産額:4,920億円

役職:新日本観光興業 社長・元参議院議員
   湘南工科大学 総長・理事長

学歴:日本大学経済学部卒業
   近畿大学大学院中退

同額3位

森 章(Akira Mori)

資産額:4,920億円

役職:森トラスト 社長

学歴:慶應義塾大学経済学部卒業

同額3位

岩崎 福三(Fukuzo Iwasaki)

資産額:4,920億円

役職:岩崎産業 社長・鹿児島商工会議所会頭 名誉会頭

学歴:立教大学経済学部卒業

6位

木下 恭輔(Kyosuke Kinoshita)

資産額:3,240億円

役職:アコム社長・実質創業者

学歴:立命館大学法学部卒業

7位

堤 義明(Yoshiaki Tsutsumi)

資産額:3,000億円

役職:コクド(国土計画)会長・西武鉄道会長

学歴:早稲田大学商学部卒業

8位

伊藤 雅俊(Masatoshi Ito)

資産額:2,880億円

役職:イトーヨーカ堂名誉会長

学歴:横浜市立商業専門学校(現:横浜市立大学商学部)卒業

9位

船井 哲良(Tetsuro Funai)

資産額:2,760億円

役職:船井電機 社長

学歴:神戸村野工業学校(現:神戸村野工業高等学校)卒業

10位

福田 吉孝(Yoshitaka Fukuda)

資産額:2,640億円

役職:アイフル社長・創業者

学歴:京都市立西院中学校卒業

2004年版

1位

佐治 信忠(Nobutada Saji)

資産額:7,590億円

役職:サントリー会長兼社長

学歴:甲陽学院高等学校卒業・慶應義塾大学経済学部卒業
   カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営大学院修了

2位

武井 保雄(Yasuo Takei)

資産額:6,820億円

役職:武富士元会長・創業者

学歴:明戸村立(現:深谷市立)明戸国民学校高等科卒業

3位

岩崎 福三(Fukuzo Iwasaki)

資産額:6,270億円

役職:岩崎産業 社長・鹿児島商工会議所会頭 名誉会頭

学歴:立教大学経済学部卒業

4位

糸山 英太郎(Eitaro Itoyama)

資産額:5,390億円

役職:新日本観光興業 社長・元参議院議員
   湘南工科大学 総長・理事長

学歴:日本大学経済学部卒業
   近畿大学大学院中退

5位

福田 吉孝(Yoshitaka Fukuda)

資産額:4,840億円

役職:アイフル社長・創業者

学歴:京都市立西院中学校卒業

6位

木下 恭輔(Kyosuke Kinoshita)

資産額:4,730億円

役職:アコム社長・実質創業者

学歴:立命館大学法学部卒業

7位

毒島 邦雄(Kunio Busujima)

資産額:4,730億円

役職:SANKYO(三共)会長・創業者

学歴:桐生工業専門学校附属桐生商工専修学校(現・群馬大学工学部)卒業

8位

堤 義明(Yoshiaki Tsutsumi)

資産額:3,300億円

役職:コクド(国土計画)会長・西武鉄道会長

学歴:早稲田大学商学部卒業

9位

伊藤 雅俊(Masatoshi Ito)

資産額:2,750億円

役職:イトーヨーカ堂名誉会長

学歴:横浜市立商業専門学校(現:横浜市立大学商学部)卒業

同額10位

神内 良一(Ryoichi Jinnai)

資産額:2,640億円

役職:プロミス最高顧問

学歴:香川県立木田農業学校(現:香川大学農学部)卒業

同額10位

森 章(Akira Mori)

資産額:2,640億円

役職:森トラスト社長

学歴:慶應義塾大学経済学部卒業

同額10位

孫 正義(Masayoshi Son)

資産額:2,640億円

役職:ソフトバンク 社長

学歴:カリフォルニア大学バークレー校経済学部卒業

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊拝

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【2021年版】フォーブス世界長者番付から見る これが日本のお金持ち・個人資産ベスト50

はる坊です。

今回は、アメリカの有名経済誌『フォーブス』が発表した〝日本の富豪50人 2021年版
を整理して、日本で個人資産を多く持つ人物をまとめてみました。

ケタ違いの資産額が並んでいますが、ほぼすべてが上場企業の創業者・オーナー経営者だとわかります。
かつては、西武グループの堤義明氏・新日本観光グループの糸山英太郎氏・丸源ビルの川本源司郎氏などがランクインしていましたが、
現在は、お名前が見受けられません。
時代とともに、長者番付も変化していくということでしょう

会社を設立して、株式上場に漕ぎ着け、好業績を上げ続けることにより、自らそして資産管理会社の保有株が多ければ多いほど、
多くの資産を有しているとフォーブスは計算しているようです。

保有株が多ければ、株式配当金も巨額になるわけですが。

それでは、ベスト50をご覧ください。

【2021年版】フォーブス世界長者番付から見る これが日本のお金持ち・個人資産ベスト50

1位  孫正義 ソフトバンク 63歳 4兆7,952億円
    (大野優美)

2位  柳井正 ファーストリテイリング(ユニクロ) 72歳 4兆5,360億円
    (柳井照代・柳井一海・柳井康治)

3位  滝崎武光 キーエンス 75歳 2兆7,864億円
    (滝崎美弥子・滝崎武史)

4位  佐治信忠 サントリー 75歳 1兆0,476億円

5位  永守重信 日本電産 76歳 9,720億円
(永守寿美子・永守貴樹・永守知博)

6位  高原豪久 ユニ・チャーム 59歳 8,640億円

7位  三木谷浩史 楽天 56歳 8,100億円

8位  似鳥昭雄 ニトリ 77歳 5,616億円

9位  重田康光 光通信 56歳 5,508億円
(重田哲夫・重田将光・重田光時)

10位  毒島秀行 三共(SANKYO) 68歳 4,752億円

11位 野田順弘・野田みずき オービック 82歳 4,644億円

12位 伊藤雅俊 セブン&アイ 96歳 4,428億円

13位 安田隆夫 ドン・キホーテ 71歳 4,320億円

14位 森章 森トラスト 84歳 4,212億円

15位 土屋嘉雄 ベイシアグループ 88歳 4,104億円

16位 三木正浩 ABCマート 65歳 3,996億円

17位 小林一族 コーセー 3,888億円
小林保清・小林和夫・小林一俊・小林孝雄・小林正典・小林勇介

18位 襟川陽一・恵子 コーエーテクモ 3,564億円

19位 宇野正晃 コスモス薬品 74歳 3,456億円

20位 大塚祐司 大塚商会 67歳 3,348億円

21位 木下(一族) アコム 2,808億円

22位 多田勝美 大東建託 75歳 2,495億円

23位 荒井正昭 オープンハウス 55歳 2,484億円

24位 栗和田榮一 佐川急便 74歳 2,430億円

25位 山田進太郎 メルカリ 43歳 2,376億円

26位 福嶋康博 スクウェア・エニックス 73歳 2,268億円
(福嶋企画)

27位 内山(一族)レーザーテック  2,214億円

28位 多田(兄弟) サンドラッグ  2,160億円

29位 武井博子 武富士 2,063億円

30位 前澤友作 ZOZO 45歳 2,052億円

31位 岡田和生 ユニバーサルエンターテインメント(アルゼ) 78歳 2,030億円

32位 飯田和美 飯田グループ 81歳 1,998億円

33位 藤田晋 サイバーエージェント 47歳 1,944億円

34位 小川賢太郎 ゼンショー 72歳 1,836億円

35位 韓昌祐 マルハン 90歳 1,825億円

36位 上月景正 コナミ 80歳 1,782億円

37位 島村恒俊 しまむら 95歳 1,728億円

38位 松井千鶴子・道夫 松井証券 - 1,706億円

39位 和田成史・弘子 オービックビジネスコンサルタント 68歳 1,674億円

40位 谷村格 M3(エムスリー) 56歳 1,534億円

41位 杉浦広一 スギホールディングス 70歳  1,523億円

42位 鈴木郷史 ポーラ 67歳 1,512億円

43位 新井隆司(隆二) ビックカメラ 74歳 1,404億円

44位 森佳子 森ビル 80歳 1,393億円

45位 中村崇則 ラクス 48歳 1,361億円

46位 和佐見勝 丸和運輸機関 75歳 1,350億円

47位 寺下史郎 IR Japan 62歳 1,339億円

48位 増田宗昭 カルチュア・コンビニエンス・クラブ(TSUTAYA) 70歳 1,318億円

49位 元榮太一郎 弁護士ドットコム 45歳 1,296億円

50位 里見治 セガサミー 79歳 1,242億円

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊拝

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2022年3月30日 第5巻発売!真鍋昌平『九条の大罪』の主人公 弁護士・九条間人とは?主要キャラクター紹介

2022年3月30日 第5巻発売!真鍋昌平『九条の大罪』の主人公 弁護士・九条間人とは?

はる坊です。

『闇金ウシジマくん』で大ヒットを放った漫画家・真鍋昌平氏の最新作『九条の大罪』が連載開始から注目を浴び、
4巻で80万部というヒットを記録しています。

3月30日に第5巻が発売されますが、第5巻の初版と合わせて累計100万部突破は間違いないでしょう。

そんな、『九条の大罪』の主人公である弁護士・九条間人についてわかりやすく説明していきます。

九条 間人(くじょう たいざ) 旧姓:鞍馬

・九条法律事務所 所長・弁護士

・弁護士登録後、山城法律事務所に3年勤務。5年前に独立。九条法律事務所を開業。

・ネットでは悪徳弁護士と叩かれているが、気にしていない。

・知人のビルオーナーから、ビル屋上の部屋を月1万円の激安家賃で借りてはいるが、
 その部屋がカビ臭くネズミも出るので、ビル屋上にてテント暮らし。

・バツイチ。

・離婚した元妻に全財産を渡し、子どもの養育費を支払っている。

・姓の九条は妻の姓。

・娘の名前は莉乃(5歳)。誕生日が九条の父の命日と同日。

・亡き父とは折り合いが悪く、検事である実兄・蔵人にも疎んじられている。

・司法試験に5回落ちている。(大学時代に遊びほうけていた?:兄・蔵人談)

・激辛好き(激辛担々麺。明太子)

・スバル車を愛用している。車は3年で買い換えるのが1番コスパが良いという持論をもっている。

・腕時計はパネライ

・ブラックサンダーという犬を飼っている。

・おでんは大根派

本の雑誌2021年3月号はる坊の雑記

『本の雑誌』2021年3月号 に当ブログの長者番付・作家部門のデータを提供させていただきました

『本の雑誌』2021年3月号 に長者番付・作家部門のデータを提供させていただきました。

はる坊です。

この度、『本の雑誌』2021年3月号 お馬ちゃかぽこ春風号 No.453にて、直木賞非公式WEBサイト『直木賞のすべて』(新しいタブが開きます)を運営されている川口則弘さんが寄稿された『長者番付作家編を読み解く』に、当ブログ内にある長者番付・作家部門のデータを提供させていただきました。

下記に長者番付・作家部門データの詳細ページへのリンクがありますので、ご興味のある方は、ぜひご覧ください

さて、同誌は1976年に発行を開始。当初は不定期誌でしたが、隔月誌を経て、1988年5月号より月刊誌となり現在に至っています。

2015年には、〝従来の書評誌にはなかったエンタテインメント中心の書評、ユニークな特集、個性的な執筆陣などで日本の出版文化に独自の存在感をアピール。本年で創刊四十周年を迎えた〟として、作家・歴史探偵の半藤一利氏・女優の吉永小百合氏・NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」「カラーでみる太平洋戦争」・車イスプロテニス選手の国枝慎吾氏とともに、第63回菊池寛賞を受賞しています。

『WEB本の雑誌』はこちらから。(新しいタブが開きます)

毎号、本好きにはたまらない興味惹かれる特集を組んでいますが、

今号の特集は「もしもベストセラーを出したら」です。

もちろん、内容は充実しており、

○1000万部超のベストセラー翻訳家・越前敏弥氏インタビュー

○『鬼滅の刃』勝手に皮算用! 原カントくん氏

○長者番付作家編を読み解く 川口則弘氏 

○角川文化振興財団 常務理事 宍戸健司氏インタビュー/「あれに似た匂い」で企画が通る!? 

○本屋の御輿の担ぎ方 元・紀伊國屋書店新宿本店 小出和代氏 

○読者アンケート/このベストセラーが好きだ! 

○わが社のベストセラー体験!

週刊金曜日/扶桑社/東京創元社/桐原書店/筑摩書房/晶文社/草思社/新潮社/双葉社/河出書房新社

○コラム/印刷会社M氏に聞くベストセラー体験! 

ベストセラーを出したら出版社と著者はどうなるのか?
本を出したい方なら誰もが夢みる、ベストセラーの世界に潜入しています。

1959年分~2004年分の長者番付・作家部門データはこちらから

今号の『本の雑誌』に提供させていただいた、長者番付・作家部門のデータは新聞発表とこちらが元になっております。

ある程度の年分で区切ってありますので、どうぞご覧ください。

長者番付・作家部門 1959年分~1973年分はこちらです。

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1959年分~1973年分)』

長者番付・作家部門 1974年分~1983年分はこちらです

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1974年分~1983年分)』

長者番付・作家部門 1984年~1988年分はこちらです

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1984年分~1988年分)』

長者番付・作家部門 1989年分~1995年分はこちらです

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1989年分~1995年分)』

長者番付・作家部門 1996年分~2004年分はこちらです

2005年以降も長者番付・作家部門が発表されていたら、どなたがランクインしていたかの推察や、作家の褒章・受章(紫綬褒章・文化功労者・文化勲章・日本芸術院会員)についても触れています。

『長者番付・作家部門を振り返ってみましょうか(1996年分~2004年分)』

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

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「餃子の王将」創業から現在までのストーリー。創業者・初代社長 加藤朝雄の生涯とは? 大阪王将との関係は?

※この記事は2021年2月6日に作成投稿し、2022年10月29日に最終更新しました。

餃子の王将のはじまり そして、王将フードサービス創業者の加藤朝雄氏とは?

餃子の王将を運営する王将フードサービスは、加藤朝雄氏が、1967年に四条大宮に王将という中華料理店を営み始めたことにはじまります。

創業者の加藤朝雄氏は、1924年7月10日に福岡県飯塚市に生まれました。

生家は小さな鮮魚店でしたが、生活は貧しく、本人がのちのインタビューで、

「9歳から家計を助けるために働いた。新聞配達にはじまり、なんやかんやと。私は毎日自分に誓うとりましたわ。いまに見ておれ、絶対に大金持ちになってやる。父ちゃんと母ちゃんにうまいものを食わせて、楽をさせてやるんだと」

と語っているように、恵まれたものではありませんでした。

それどころか、貧乏であることで周囲に軽んじられたこともあったのでしょう。
幼少の頃から、〝大金持ちになってやる〟と自分自身に誓うに至ります。

加藤氏は地元の飯塚尋常小学校(現:飯塚市立飯塚小学校)を卒業後、本格的に働きはじめ、1941年に17歳で中国大陸・山西省臨汾に渡ります。
先に長兄が現地に渡って飲食店を経営していたのが理由でした。

ここで加藤氏は、初めて餃子に出会い、口にします。

そして、加藤氏は一旦は洋食を勉強するために帰国して、梅田新道のアサヒビールが運営するビアホールでコック見習いとなりますが、1944年に徴兵され、陸軍二等兵となった彼は、新京(長春)にあった関東軍憲兵学校で訓練を受け、憲兵教習隊員となり旧満州・大連で勤務中に終戦を迎えます。

その後、1947年に日本へ引き揚げた後は、料理店勤務、行商人、進駐軍食堂コック、薪炭商、小口金融業、ファッションホテル共同経営と様々な経歴を重ねます。

薪炭商をはじめた頃に1歳年下の梅子夫人(1925年2月21日生まれ)と知り合い結婚。
潔(1950年3月2日生まれ)さんと欣吾さん(1953年10月5日生まれ)というふたりの息子に恵まれます。

ですが、加藤氏が経済的に安定を迎えるのは、ファッションホテル共同経営をはじめる40歳の頃で、それまでは商売で辛酸を舐めて、まとまった借金を背負ったこともあったようです。

「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」

そして、1967年12月25日に、現在も餃子の王将第1号店である京都・四条大宮に王将を開店。
加藤氏は43歳になっていました。
最初は家族経営の10坪の店でした。

加藤氏自身が中華鍋を振るい、梅子さんが客の注文を聞き、会計を担当。
当時、平安高校生だった長男・潔さんが出前に走ります。

店は瞬く間に繁盛しました。
周囲の中華料理店がだいたい80円で出していた一人前の焼餃子を、王将では50円にして目玉商品としたのです。
そして、第2号店として出店した山科店では、「餃子10人前食べたら無料」と宣伝して、一気に客を呼び込みます。

四条大宮に店を構えてからわずか3年で、王将は6店舗に成長します。
1969年には、妻・梅子さんの16歳年下の弟・大東隆行氏を王将に迎え入れています。
大東氏が関西経理専門学校に進んだのは、加藤氏の助言があった為と、生前の同氏が語っています。

しかし、ここで加藤氏は大きな壁にぶつかります。
それは人材難でした。

「この世の中で使いにくいのは運転手と職人でっせ。腕があるさかい、定着しない。

給料に不満だったり、ちょっとでも気に入らんことがあると、プイとやめていってしまいまんのや」

この時代の苦労を、後年のインタビューで加藤氏は率直に振り返っています。
ここで加藤氏は考えに考え抜いた挙げ句、従業員を集めてこう訴えました。

「これまで以上に儲けた分は、売上金はみんなにくれてやる。みんなで仲良う分けろ」

すると、従業員のやる気に火が付きました。

店の売り上げが2倍、3倍と増えていったのです。



店舗を拡大後の1974年7月には、株式会社 王将チェーンとして会社組織に変更

加藤氏は代表取締役社長に就任します。

そして、専務取締役には若干24歳の長男・加藤潔氏が就任。その後、次男・欣吾氏も常務取締役に就任しています。

1984年10月まで、王将の役員は、加藤朝雄氏(社長)・加藤潔氏(専務)・加藤欣吾氏(常務)・加藤梅子氏(監査役)のみと創業者一族で固められていました。

営業本部長を務めておられた大東隆行前社長は、この1984年10月に取締役に、2ヶ月後の同年12月には常務取締役に就任されました。

大卒初任給日本一の企業 ただし、労働条件は過酷だった

加藤氏は店舗の拡大とともに、新卒採用を徹底しておこないました。

1975年の大卒者初任給は15万円。

大卒の平均初任給は89,300円の時代でした(年次統計より)

1979年には一気に初任給を20万円にアップさせました。

同じく大卒者初任給の平均は109,500円でした(同じく年次統計より)

しかも、毎月4,000円の昇給があり、基本給が30万円になれば、すぐに基本給40万円の店長に昇格、または、開業資金の1割を用意できる者には、フランチャイズ店を出せるようにしました。

王将のフランチャイズ第1号店は、1972年、京都市内の中立にオープンしています。

高収入と独立を目当てに、大学新卒採用も進みました。

新卒者は、近畿大学・九州産業大学・岡山商科大学・大阪商業大学・桃山学院大学・京都産業大学・立命館大学など、関西・九州圏を中心に集まります。

しかし、給料が高ければ高い分だけの労働が求められました。

1日の労働時間は14時間以上。

朝9時30分に出勤して、掃除や仕込みを分担して10時30分に開店。

そのまま、まとまった休憩を取ることなく、23時の閉店後に店の片付けを終えて店を後にするのが24時。

月に休みは1日もなし。

皆勤手当が月額25,000円支給されていましたが、1日でも休んでしまえば、この皆勤手当は0円になります。

また、各店舗の売上に順位を付けて、最高9万円から最低1,000円支給される〝順位賞〟も1日休めば半額支給になってしまう仕組みでした。

そして、店長はさらに大変でした。

店長の給与は50万円と高額でしたが、店の掃除のやり方や皿やどんぶりの洗い方が悪く、客に悪印象を与えた場合は、加藤氏自らが1万円~5万円の減給を決定しており、さらに、本部へ客からクレームが入ると、監督責任を問われて10万円の減給となりました。

「働けば働くほど収入は確かに増えるけど、辛いのも一般のサラリーマンの倍ですね」”(当時の店長談)

「店長は責任のすべてを、一身に被らなければならない」”(同じく当時の店長談)

それでも、高収入と独立制度に惹かれて、王将に勤めたいという志願者はあとを絶ちませんでした。

1980年7月には、商号を株式会社 餃子の王将チェーンに変更しています。

この当時、餃子の王将は関西に124店舗、名古屋に9店舗、東京に26店舗を運営しており、年間売上高は80億円 経常利益7億円となっていました。

ちなみに、この当時の餃子一人前の値段は140円。

結果として株式上場は1993年3月となりましたが、1980年当時から、加藤朝雄氏は餃子の王将の株式上場を考えていたようです。

この間、餃子の王将は成長を続け、年間売上高は100億円、200億円を突破。

関西圏から全国に店舗を展開していきました。

1990年12月には、商号を王将フードサービス変更。
年商300億円を狙えるところまで迫っていました。

ところが、株式上場まもない1993年6月10日に加藤氏は68歳で急逝します。
一説によると、晩年の朝雄氏は大腸がんを患い、人工肛門を装着していたという話があります。

アサヒビール時代に加藤氏よりスカウトされた副社長の望月邦彦氏が社長を継ぎますが、1994年には加藤氏の長男である加藤潔氏にバトンタッチ。その後、経営悪化により大東隆行氏が2000年に社長に就任する流れとなっています。

大東隆行氏は、社長就任後、ある夕刊紙のインタビューで、〝「年収は5,000万円」〟と発言されています。
また、同時期には大東氏の息子さんが、現在は撤退している和食事業〝いけすの王将〟三雲店の店長をされていました。

現在の王将フードサービス社長である渡邊直人氏の年間役員報酬(年収)は1億1,200万円。
内訳は、金銭報酬が8,300万円 非金銭報酬等が2,900万円となっています。(王将フードサービス有価証券報告書より)

餃子の王将を展開する 王将フードサービス店頭公開(JASDAQ上場)時の情報

餃子の王将を展開する王将フードサービスは、1993年3月16日に株式店頭公開(現在のJASDAQ上場)を果たしました。

上場時のデータは以下のとおりです。

株式会社 王将フードサービス

会社設立:1974年7月

店頭公開:1993年3月

資 本 金:19億100万円

総 資 産:394億5600万円

株主資本:88億8300万円(22.5% 748円)

借 入 金:198億1000万円

金融収支:▲6億7300万円

従業員数:748名(平均年齢 31.6歳)

平均賃金:378,158円

株主構成:

加藤欣吾 287万1000株(24.1%)

加藤潔  265万1000株(22.3%)

加藤朝雄 179万5000株(15.1%)

加藤梅子  93万2000株(7.8%)

従業員持株会 30万1000株(2.5%)

加藤ひろみ 22万0000株(1.8%)

大東隆行 20万3000株(1.7%)

加藤貴司 20万3000株(1.7%)

加藤英里 20万3000株(1.7%)

加藤真人 20万3000株(1.7%)

役員構成:

代表取締役社長:加藤朝雄

取締役副社長  :望月邦彦

専務取締役  :加藤潔

常務取締役  :加藤欣吾

常務取締役  :大東隆行

常務取締役  :鈴木和久

取締役    :土肥原啓二

取締役    :宮嶋廣正

取締役    :宮光正

取締役    :知久平芳美

取締役    :森田八寿広

取締役    :村上武敏

常勤監査役  :小坂晴一郎

監査     :野中智弘

上場当時の王将は、日銭が入る商売とはいえ、あまり財務状況が良いとはいえず、公募株式で得た資金は、借入金返済に充てるつもりだったようです。

王将フードサービス 業績推移

それでは、1989年~1992年までの餃子の王将の決算を見ていきましょう。
急成長期には終わりを告げていますが、しっかり順調に伸びています。

1989年3月期決算:

(こちらのみ変則決算)

売上高:221億1,700万円

営業利益:24億2,100万円

経常利益:12億7,700万円

最終利益:5億1,900万円

1990年3月期決算:

売上高:265億3,200万円

営業利益:29億2,000万円

経常利益:13億8,300万円

最終利益:5億1,900万円(1989年3月期と同額)

1991年3月期決算

売上高:276億7,770万円

営業利益:32億6,000万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:9億2,000万円

1992年3月期決算

売上高:288億9,000万円

営業利益:35億6,900万円

経常利益:20億6,800万円

最終利益:12億5,100万円

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)との関係は?

日本に〝王将〟は2つあります。

王将フードサービスが運営する「餃子の王将」

イートアンドホールディングス傘下の事業会社・大阪王将が運営する「大阪王将」です。

大阪王将の創業者・文野新造氏は加藤朝雄氏の親族といわれています。

最初、京都に店舗展開を進めていた餃子の王将からのれん分けをしてもらう形で、1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を開いたのが大阪王将の始まりです。

餃子の王将との違いは、まず経営スタイルです。

文野氏の中華料理店のメニューは、餃子とチャーハン、ラーメンの3品のみでしたが、餃子が一人前50円であったことから、安くてうまいものに目のない大阪人のハートを、いきなりガッチリと掴みます。

文野氏は店の売上が餃子中心であることに着目して、1969年3月から餃子専門店に業態を変更します。

餃子のみにメニューを絞ったことで、構えの大きい店舗展開が必要がなくなり、大阪王将は順調に店舗を増やしていきます。

そして、文野新造氏の個人事業から、1977年8月には、大阪王将食品株式会社に法人成りを果たします。

二代目社長となる文野直樹氏は、この頃から厨房に立って店の経営に携わっていました。

1982年には100店舗を達成しますが、一説によると、大阪王将の店舗を京都に出店したことにより、加藤朝雄氏との関係が悪化。商標権を巡って裁判沙汰にまでなってしまします。
結局、1985年に和解が成立しますが、1980年代前半に大阪証券取引所(新市場ベンチャー向け)2部への上場を目指していた加藤氏にとっては、この裁判が上場への大きなネックになったのかもしれません。

この当時、この大阪証券取引所2部に新しく作られた新市場で上場を果たして、のちに東証1部上場企業となった会社にコナミホールディングスがあります。

その後、餃子の王将と大阪王将は袂を分かち、お互いに独自の経営戦略で事業を発展させていきます。

大阪王将は、1990年代初めに商事部という部署を創設します。1993年9月には商事部から冷凍食品の餃子を生協向けに販売を開始。
自宅でも大阪王将の味が楽しめるようになりました。

その後、社名も大阪王将食品から大阪王将に変更。

そして、2002年1月にはイートアンド株式会社にまたも商号変更します。

堅実な店舗展開と冷凍食品の販売を進めながら、東京進出を果たし、2011年6月には大阪証券取引所JASDAQ市場に株式を上場。
2002年11月に東京証券取引所第2部上場を経て、2013年11月に東京証券取引所第1部に指定替えをおこないました。
晴れて、東証1部上場企業となった訳です。

餃子の王将を展開する王将フードサービスと大阪王将を展開する大阪王将(イートアンドホールディングス)歴代社長

ちなみに、『餃子の王将』を展開する王将フードサービスの創業者・社長が加藤朝雄氏で、
二代目社長がアサヒビールより招聘した望月邦彦氏。
三代目社長が加藤朝雄氏の長男・加藤潔氏。
四代目社長が大東隆行氏。
現在の五代目社長が渡邊直人氏です。

渡邊氏は、1955年8月19日生まれの67歳。1979年に桃山学院大学経済学部を卒業後、新卒入社。
1984年12月には早くも営業部次長となり、主に東京地区のエリアマネージャーや地区本部長を経て、
2004年に取締役、2008年に常務取締役となり、2013年12月に代表取締役社長に就任されています。

『大阪王将』を展開するイートアンドホールディングスの創業者が現在の代表取締役会長の文野直樹氏の父親である文野新造氏です。
創業メンバーである佐野文夫氏と本木健二氏とともに1969年9月に大阪・京橋に中華料理店を出店したところ、
餃子の売れ行きがダントツであったことから、早々に、餃子専門店に業態を変えています。

株式会社イートアンドホールディングスの代表取締役会長CEO 文野直樹氏の経歴

イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOは文野直樹(ふみの なおき)氏です。
1959年11月29日生まれの62歳。
啓光学園高校を卒業後、大阪学院大学経営学部に進学するも1980年に中退。
実父・文野新造氏が経営する大阪王将食品に正式入社して、1984年7月に社長に就任したという経歴の持ち主です。

1996年8月に株式会社大阪王将に商号を変更。

2002年1月にイートアンド株式会社に商号を変更。

2011年6月に株式をJASDAQ市場に上場。

2012年11月に東京証券取引所第2部に上場。

2013年11月には、ついに東京証券取引所第1部上場を果たしています。

そして、2020年11月には、持株会社への移行とともに、株式会社イートアンドホールディングスとなり、大阪王将の運営会社は株式会社大阪王将となっています。

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COO 仲田浩康氏の経歴

株式会社イートアンドホールディングスの取締役社長COOは仲田浩康(なかた ひろやす)氏です。
大阪王将の冷凍食品を扱う事業会社の株式会社イートアンドの代表取締役社長も兼任されています。

仲田氏は1964年4月26日生まれの57歳で、高校を卒業後、当時、流通業界で最大手だったダイエーに入社。
23歳で最年少主任となるなど活躍をしたのち、2000年8月に大阪王将に転職。

ご本人がインタビューで語られているところでは、ダイエーでは実績を残されていたので、大阪王将に移られた際には、給与・年収ともにダウンしたそうです。

その後、2001年7月に商事部部門長。2004年6月に取締役。2009年4月に取締役 常務執行役員 トレーディング本部長。
2012年4月 専務取締役。2017年6月にはついにイートアンドの代表取締役社長に就任。
持株会社移行後は、取締役社長COOに就任されています。

また、社会人となっても向学心を忘れず、関西学院大学大学院に進み修了されています。
よって、最終学歴は関西学院大学大学院修了となっています。

株式会社大阪王将の代表取締役社長 植月剛氏の経歴

大阪王将を運営する株式会社大阪王将の代表取締役社長は植月剛(うえつき たけし)氏です。
持株会社である株式会社イートアンドホールディングスの取締役も兼任されています。

植月氏は1972年7月13日生まれの49歳で、龍谷大学社会学部卒業後、1995年4月に大阪王将に新卒入社。

その後、2006年6月に取締役。2009年4月に取締役 執行役員 王将営業本部長。
大阪王将の海外事業部門も統括します。
2012年4月には、取締役 常務執行役員 王将営業本部長。
2019年4月に常務取締役 外食事業統括兼海外戦略本部長。

と順調にキャリアを積んで、2020年10月に大阪王将の代表取締役社長に就任されています。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊拝

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はる坊の雑記

ご長男が社長に!さくらももこさんの事務所 さくらプロダクションの現在

さくらももこさんの事務所 さくらプロダクションの現在は?

はる坊です。

2018年8月15日に漫画家のさくらももこさんが亡くなられました。
亡くなられてから、もうすぐ2年半かと思うと、月日の経つのは早いものだと感じます。

漫画家としても有名なさくらさんですが、エッセイストとしてもすぐれた作品を残されています。

もともと、さくらさんご自身はエッセイストになりたかったけれど、その方法がよくわからなかったこと。
また、知名度のない人間のエッセイなど、書いたところで誰も手に取って読んでくれやしないだろうと思ったので、まず漫画家になったという話があります。

特に、1991年に刊行された『もものかんづめ』(累計235万部) 

1992年に刊行された『さるのこしかけ』(累計150万部) 
同じく1992年に刊行された『たいのおかしら』(累計130万部) 

の初期エッセイ集はミリオンセラーとなり、広く読まれました。

中学校の授業で使う副読本にも、エッセイの文章が使われていました。

さて、20代前半の若さで『ちびまる子ちゃん』を大ヒットさせたさくらさんは、1990年2月6日に、株式会社さくらプロダクションを設立しています。

会社設立の理由としては、著作物の版権管理をスムースにおこなうこと、アシスタントなど、周囲にいる方々への福利厚生面での配慮、そして税金対策が挙げられると考えます。

あれだけ大ヒットした『ちびまる子ちゃん』ですが、作者であるさくらももこさんは長者番付上位に登場されたことはありません。
(さくらさん個人で7000万円ほど納税されていた年もありましたが、そうなると当時の年収は1億5000万円以上となります)

これはさくらプロダクションで納税されていたことが大きいでしょう。

さくらさんが亡くなられてからも、日曜6時からはアニメ『https://amzn.to/2NYuIsV』が放映されており、企業のCMキャラクターにも起用されています。

また、『りぼん』にも新作が掲載されることがあり(原作:https://amzn.to/3f7ms5N 漫画:さくらプロダクション の扱いです)、キャラクターグッズも多く販売されています。

現在は息子さんがさくらプロダクションの社長

株式会社さくらプロダクションは、1990年2月6日に設立されています。

さくらももこさんは、前年の1989年に集英社『りぼん』の編集者だった宮永正隆さんと結婚され、宮永さんは1990年に集英社を退社、さくらプロダクションの社長に就任しました。

1965年5月8日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれたさくらさんは、地元の静岡県立清水西高等学校と静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科を卒業して、上京。

ぎょうせいにOLとして勤務しますが、すでに漫画家としてデビューを飾っており、勤務時間後は漫画を描くため睡眠時間が足りず、居眠りが目立つことを上司に注意された際に、「会社か漫画かどちらかを選べ」と言われたことから、「ちびまる子ちゃん」の連載も決定していたことから、「そりゃ、漫画にしますと」即答して2ヶ月で退社。(この覚悟の据わりっぷりはスゴイと思います)

宮永さんとの離婚後は、さくらさんご本人が、代表取締役社長となり、取締役には、父・ヒロシさんと母・スミエさんが名を連ねて、監査役にも親族の方が就任されていました。

さくらももこさん亡き後の2019年1月17日にさくらさんの長男・三浦陽一郎さんが取締役に就任され、同年3月29日に代表取締役社長に就任されました。
同時に、父・ヒロシさん 母・スミエさんは取締役を退任されています。

さくらさんの父・ヒロシさんは静岡県清水市(現・静岡市清水区)で八百屋を営まれていましたが、さくらさんが漫画で成功されるとともに、スミエさんとともに東京へ移住されています。

『ちびまる子ちゃん』の原作やアニメだと、ヒロシさんには、この仕事をしているという設定がないので、何の仕事をしているかわからないのですが、これはさくらさんご自身が八百屋だとバックに野菜や果物などを背景に描くことを嫌ったことが原因という説があります。

私は何となく、1990年にアニメを見始めた頃、「ヒロシさんは、製造業関係の技術屋さんかなあ…」と思っていました。
個人的には、ヒロシさんより友蔵さん(リアルでも漫画の世界でも)が、何の仕事をされていたのかが気になります。

累計発行部数3200万部以上となった『ちびまる子ちゃん』のメガヒットで、巨額の印税が入って、生活は左うちわでうらやましいと思われるかも知れませんが、著作権をしっかり管理して、作品のイメージを損なわないようにコントロールしていくのは大変なことです。

これからもさくらももこ作品が、広く愛されていきますように。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。

はる坊の雑記

最強のファミリービジネスだった 長谷川町子『サザエさん』と姉妹社

2020年は『サザエさん』の原作者・長谷川町子さんの生誕100年

はる坊です。
2020年は『サザエさん』の原作者・長谷川町子さんの生誕100年にあたります。

長谷川町子さんは1920年に佐賀県生まれ、福岡県を経て東京都に移住。
『サザエさん』『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』という大ヒット漫画を生み出して、1992年に逝去されました。
没後贈呈ですが、国民栄誉賞を授与されています。

『サザエさんは』1969年からアニメ化され、「古き良き時代の日本の家庭が見られる」という肯定的な意見と「時代とズレている」という否定的な意見がありますが、ずっと日曜日18時30分から毎週放映されています。

長谷川家が営んでいた出版社・姉妹社

『サザエさん』の原作は四コマ漫画として、地方紙であるフクニチ新聞などを経て、休載を挟みながら25年に渡り、朝日新聞に連載。

『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』はサンデー毎日に連載されていました。

とすると、コミックスの発行は朝日新聞社と毎日新聞社となるのが通常の流れですが、長谷川町子作品はすべて、姉妹社という長谷川家が営んでいた出版社から発行されていました。

姉妹社が発行しているのは、長谷川町子作品だけ。
つまり、確実に、絶対に売れる作品だけを出版していました。

姉妹社は長谷川町子さんが1992年に亡くなられたことにより、1993年5月27日に廃業して、著作権は1985年9月3日に設立されていた財団法人 長谷川町子美術館に引き継がれました。
長谷川町子美術館は現在、一般財団法人となっています。

姉妹社が設立されたのは1946年12月のこと。
この姉妹社が株式会社だったのか有限会社だったのか、それとも個人事業だったのかはよくわかっていません。

工藤美代子『』では、“姉妹社が株式会社あるいは有限会社として登録された記録はない”となっています。

姉妹社設立の中心となったのは、町子さんの母・長谷川貞子さんと姉の長谷川毬子さんでした。
そして、妹の長谷川洋子さんが経理を担当します。

翌1947年1月1日付で、夕刊フクニチに連載されていた『サザエさん』をコミックスとして発行したのが、最初の出版事業でした。

最初は、本のサイズが書店に置きづらいB5サイズになっていたので、返本の洗礼も受けたようですが、3巻目が出る頃には順調に売れはじめ、1950年には〝サザエさんのまち〟として知られる世田谷区桜新町に640坪の敷地面積をもつ邸宅を新築しています。

長谷川町子さんの収入

気になるのが、長谷川町子さんの収入ですが、年収が判っているのは以下のとおりです。

1971年分 申告所得2453万円
1972年分 申告所得1682万円

この当時、公示されていたのは申告所得額です。
実際の収入-必要経費=申告所得となります。

実際の収入は申告所得の2倍といったところが多かったようです。

いまから50年前と、時代も時代ですが、
「えっ、これだけ?」と思われた方もおられるかもしれません。

そんなあなたは鋭いです。

次の申告所得額を見てどう思われますでしょうか?

1971年分 申告所得1億3273万円
1972年分 申告所得2億2629万円

現在から見ても、超高収入です。
これは、町子の姉・長谷川毬子さんの申告所得です。
1972年分では母の貞子さんも申告所得2238万円。
妹の洋子さんも申告所得1402万円です。

長谷川家の皆さんは、姉妹社に入って来る莫大な収入を、家族に分散していました。
姉の毬子さんの申告所得額が桁外れなのは、姉妹社の経営者だったこともありますが、町子さんの収入を大きなものにしてしまうと、『サザエさん』読者や視聴者から、

「一般家庭を描いているけど、作者本人はものすごいお金持ちじゃないか」

と思われるのが嫌だった、という点が考えられます。
そういった見方を避ける必要があったのではないかと思います。

姉妹社に必要なのは〝社員〟ではなく〝奉公人〟

1976年に現在、長谷川町子美術館の理事長兼館長を務めている川口淳二さんが、義母のツテで商社から姉妹社に転職しています。

このときの面接で、社長の毬子さんが川口さんに告げた言葉が印象的です。

「うちは〝社員〟ではなく〝奉公人〟でなければ務まらないけど、どんな仕事でもできる?」

奉公人とは、ずいぶんと時代がかった言葉ですが、長谷川家に忠誠を誓える人間しかいらないとする、毬子さんの強い意思が感じられます。

実際、川口さんは出版関係から掃除や庭の草むしり、運転手もこなす〝何でも屋〟を務めます。
川口さんによれば、この頃、姉妹社の社員は7名ほどだったとのことです。

雑誌『東京人』2020年5月号に、長谷川町子特集があります。
なかなか読み応えのある特集号ですので、興味のある方は一読されることをお勧めします。

長谷川町子美術館と遺産の行方

長谷川町子美術館の建設計画がスタートしたのは1980年です。
昭和30年代から収集をはじめた絵画や陶芸品、ガラス工芸品を社会還元することを目的に、財団法人による美術館運営を目指していましたが、実際に設立が認可されたのは1985年9月3日のことでした。

そして、同年11月3日に財団法人 長谷川美術館として、姉妹社が倉庫として使用していた土地に建てられた建物が美術館としてオープンします。

初代館長には長谷川町子さん自身が就任しています。

この財団法人には美術品の社会還元の他に、相続税対策も絡んでいました。
母・貞子さんは優秀な不動産投資家で、晩年は認知症を患われていましたが、その資産は10億円に達していました。
この資産を相続税にもっていかれることなく、処理をするには、自前の財団法人に寄付するのが一番の方法でした。

発足当時、財団が有していた資産は12億円でしたが、2008年の時点では、何と96億円となっています。
ですが、現在、この財団の役員に長谷川家の方はどなたもおられません。
長谷川町子さんが収集された美術品の社会還元と、その著作権の管理運営保持を役割としています。

1992年5月27日、長谷川町子さんは72歳でその生涯を終えます。
同年7月28日には、国民栄誉賞が没後贈呈されました。

長谷川町子さんの名前が、再び世間を賑わせるのは翌年のことです。
町子さんの遺産額が税務署に公示されたのです。
当時は一定額以上の遺産があった場合、遺産額と相続人を税務署が公示していました。

長谷川町子さんの遺産額、何と29億8800万円。

同じく前年に亡くなった松本清張でさえ、遺産額は17億5700万円でした。

そして、町子さんの遺産額が公示されてまもなく大事件が起こります。
多磨霊園から、町子さんの遺骨が盗まれたのです。

その後、犯人からの脅迫状が届き、結果として、遺骨は渋谷駅のコインロッカーで発見されて、遺族の元に戻りました。

犯人とのやりとりは、一切警察が明かしていません。
ですが、ある週刊誌では「2000万円の要求があった」と記されています。

日曜夜に放送され続けている『サザエさん』ですが、その裏側にはとてつもない歴史がありました。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

参考文献:

長谷川町子『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』
長谷川洋子『サザエさんの東京物語』
工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』